2000年の3日間

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学校に通って教室に気だるく座るという行動は、6才から義務的にすりこまれている、呼吸とほぼ同じような他愛もない人間活動のはずなんだけど。 それが息苦しくてできなくて、みんなが簡単にやってのけてることを自分ができてないのが悔しくて、また息苦しくなる。 だから時田くんはいま、少しでも呼吸が苦しくならないように、椅子に浅く腰かけて机に対してちょっと斜に構えるみたいに不自然に座ってる。  「むぎは何の先生なの?」 『英語だよ。でもホントは小学校の先生になりたいの。だからなんでもできちゃうからさ。時田くんの好きな教科やろ?』  島崎先生の机のすぐ脇においてあった丸椅子を、時田くんの対面になるように置いて座って、両腕で頬杖をついてみたら、教室の机はすごく小さかった。 この面積が自分の居場所なんだもんね。 学校なんて、誰にとってもなかなか狭苦しくて息苦しい。  「…………基礎解析」  声…ちっさ!  『…。』 「き そ かい せきっ!だめなら代数幾何!」   『……ん?』   「むぎ?」 『はーい?』    「できねーんだろ?数学…。なんでもできちゃうとか……うそついてんじゃねーよ。」 『時田くん、私の話聞いてなかったの?私は、しょー がっ こぉ のっ 先生になりたいの。小学校に基礎解析も代数幾何もありませーん。算数でよろしければどうぞ。』 「……チッ…」 『あーっ!態度悪いぞっ』 「教師でもないくせに嫌なとこばっかり教師っぽぃ…」 『…ん?…ん?…言いたいことはハッキリね。』 「……英語でいいです」 『“でいいです”じゃなくて“がいいです”が正しいからね。はぁい。かしこまりました♪』 「……。」 『時田くん、英語はどの辺までわかるの?』 「…アルファベットは書けるけど。」 『それはイマドキ幼稚園児でも書けるね。えっと、This is a penが限界って感じ?』    「でっしぃ…?」   『え?』 まじか。こいつ。  「……なんつった?」 『嘘でしょ!そんな段階?ディスイズアペン!だよ? thisはこれ! isはナニナニです! penは…まんま!』 「……そ、そんぐらいわかるわっ!」 『アラ?私の発音良すぎちゃったのかしらぁ?』 「……チッ…」 『はい態度悪いー。その2ー。』  はあぁぁ…  長めの瞬きとセットの深めのため息。 でもね。 ちょっとずつ感じるよ。 さっき初めて私に向けてきた、生き急いでいるような、死に場所を探しているような廃退的なオスの目。 考えてることを見透かされないようにまとってる堅い鎧。 少しずつ溶け始めてるんじゃないかな。 おこがましいかな。こんなこと思うなんて。 3日しかないのにね。 3日じゃぁさ、何も変わらない、始まらないじゃない。私に何ができるのかなんて、なんにもわかんないよ。  「aは?どこ消えた?」 『ん?』 「ペンの前の、ア。」 『冠詞は日本語にはないから訳せないね。名詞の前につくの。aはたくさんある不特定多数のもののひとつを指すとき。どうでもいい的な?不定冠詞っていうの。これっていう特定のもののときは定冠詞theがつくよ。ちなみにaがつくのは名詞が子音で始まるときね。子音ってわかる?アイウエオ以外のこと。』 「…。」 『…ああ!知らなかったでしょ。“そのぐらいわかるわっ!”って言わなかったもんね。』 「うるせ。真似すんな。」 『英語的にはアエイオウなんだけどね。ではではー。アイウエオの母音で始まる名詞のときはなんていう不定冠詞がつくでしょーぉか?』 「…しらねーよ」 『だろうね。正解はan。発音しやすいように“ア”じゃなくて“アン”になるの。“ボインを目の前にするとあーぁん…っ”…って覚えてね。』   はあぁぁ… さっきと同じため息だけど。 最後ちょっと笑っちゃって、それごまかそうとして頬杖ついてる手のひらをずらして口を塞いでる。 笑っちゃえばいいのに。 学校なんだから。 気づいてよ。笑うための場所なんだよほんとは。   「むぎ?」 『はーい?』  「俺…なんかこの先、とっても心配なんだけど」 『私を目の前にして“あーぁん…”ってなっちゃいそうだから?』 「ならねーよっ!まっ平らじゃねーか!こんな授業でわかる気がしねーっつの。」 あ。笑った。かわいい。 …って、言わない方がいいんだろうな。この子の場合。   『でもさぁ…英語って勉強じゃないんだよね。』 「どういうこと?」 『伝達手段だから。言葉って、魂だから。…あ!』 「なに?」 『これいいかも。aとthe、何が違うのかすぐわかる。』 バッグの中から家庭教師のバイトで貯めて買ったソニーの最新ウォークマン。 ピコピコいじって目的の洋楽を見つけて、時田くんの右耳と私の左耳を、重低音が大得意なイヤフォンで繋いで曲を流しながら、歌詞の一説をホワイトボードに書き記した。  A day in the girl's life  私の人生のたった数日間は、一瞬なのに永遠みたいだった。
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