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ぷつ………
………って。
私の体のどこかから音が聞こえた気がした。
ぁ…だめだ。
悔しい。
泣いたら敗けなのに。
あんな言葉に振り回されたら敗けだ。
目の前には日々と必死で戦ってる時田くんがいるのに、先生の私がこんな一撃で泣いたら一発退場、反則だ。
「早瀬先生はドライなんだから…」
んふふ。
島崎先生のくるんとゆるくカールする毛先が笑って揺れた。
「俺たちは私立高校教師なわけ。ボランティアでも義務でもない。飯食ってくんだよこれで。賢いヤツをできるだけランクの高い大学に突っ込んで実績あげて、次の生徒と金集める組織の歯車なわけ。それなのにあいつは、底辺の奴等ばっかり気にかける。だからトップレベルの生徒からは信頼もされない。受験を視野にいれない授業構成するし、校長や副校長相手にうまく立ち回るセンスもゼロ。教育実習生のくせに毎朝職員会議で意見言うし校長に噛みつくし。あれじゃ、やってられない。見てて疲れる。最後の3日とはいえ、保健室に追い出してくれて助かったよ。」
瞼…あついな…
敗けるのかな…
明日で、終わりなのに。
映画もまだ、途中なのに。
このまま、瞬きしたら、きっとこの水溶液は…こぼれ落ちる…
ぁ…そうか。
瞬きしないことだけに集中したらいいのか。
そしたら早瀬先生と島崎先生の話だって聞く余裕なんてなくなるわけだし……
ふ…ゎ……っ…
時田くんが、そっと私に巻き付いてきた。
いいにおい。
洗剤と柔軟剤と、時田くんのおうちのにおい。
あったかい…
細いからやわらかくはないけど、
ぎゅって引き寄せられると心地いい。
大人の手前、子供の終わり、途中の体。
それにしても…キスならともかく、ハグにも慣れとか上手い下手とか、あるものなのね。
右手はゆるゆるに添える程度に背中に回ってるのに、左手が痛いよ。
二の腕に私の右耳が埋もれてて、手のひらに私の左耳が埋もれてて。
ぎゅーぎゅー力いっぱい締めてきて、プロレス技みたくなっちゃってるから。
「ひどい言い方ね。理詰めで反論の余地もないじゃない。私から見ると、早瀬先生もそれなりに暑苦しいわよ?でも……宮坂さんみたいな四字熟語オンパレードなヒトは他人の傷みを理解して生徒に寄り添える素養が備わっているかどうか極めて疑問だわ。」
ぎゅ…っ…時田くんの左腕にまた力がこもる。
痛いってば。耳がつぶれちゃう。
…ぁ…。
耳を塞がれてるんだ。
聞こえないように?
そんなのムリだけど。
無音になんてならないし、例え発せられる言葉が耳に届かなかったとしても、向けられてる不信感や敵対心に、気づいてない訳じゃなかった。
「宮坂が四字熟語ってなに?」
「天真爛漫、順風満帆、帰国子女、成績優秀、容姿端麗、実家裕福…」
「あはははっ!実家裕福って四字熟語ないだろ。やっぱりやきもちやいてるんだ。かわいいな、島崎先生は。」
「だって…早瀬先生の後輩だからって、あの子、早瀬先生にあんまり距離も置かずに接するし、早瀬先生もあの子のこと…ぁ……ん…っ…。だめよ早瀬先生、が…学校だから…っ」
「じゃあ。この先は俺のうちで、聞かせて…?」
教師のくせに短すぎるスカートをゆらしながら島崎先生が先に出ていって、それを見送った早瀬先生は、地層模型を準備室に運び入れると、ポータブルビデオプレーヤーが一台壊れて一台減ってるのなんて全く気づかず出ていった。
『時田く…痛い。もう離して。』
痛みさえ心地よく、あたたかく囲われたその場所は、ゆるりとほどけていった。
なんで時田くんが泣きそうな顔してんのよ。
『き……気づかれなかったよね?セーフ!あははっ』
我ながら火の用心を叫びたくなるほど乾燥しきった笑い声だ。
憐れみ…戸惑い…そんないろいろを混ぜこんだ複雑な表情で、時田くんは私のことをじっと見つめてた。
「…あの…あのさ…っ……気にすんなよ。むぎも言ってたじゃん!島崎先生はわかってないんだよ。」
はあぁぁ…
時田くんお得意のためいきを、今は私が発した。
引き戸を開けて、周りが無人なのを確認してから、足音を忍ばせることもしないで保健室へ続く廊下を無言で進む。
「むぎー。ほんと、気にすんなよ?」
『…。』
「俺は…むぎみたいな先生がいたら学校楽しくなるのになって、思ってるよ。」
『……。』
カラカラカラカラ…
保健室の扉はやたらとローラーの回転が軽い。
他の教室と比べると圧倒的に開閉回数が少ないからなのかな。
ちょっと乱暴に閉めると、扉は結構な速度で反撃してきた。
『わかってないのは時田くんのほうじゃない!』
泣いといた方がまだマシだったのかもしれない。
『……だいたい時田くんに認められたって、先生になれる訳じゃないんだよ!』
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