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いっそのこと、泣きじゃくって全部放り出して帰っちゃった方がマシだったと思う。
思ってることを全部ぶちまけて八つ当たりしたところで、事実も未来も変わりはしないのに。
『早瀬先生と島崎先生の言ってることは、間違ってない。』
「そんなことない!むぎは、ちょっと変わってるけど、おもしろいし…」
『そういうの、いらないからっ!時田くんは、私が教室で授業してるところ、見たことないでしょ?私が職員室でどんな仕事してるか、見たことないでしょ?時田くんに何がわかるのよ!』
「……むぎ…」
『ほら!自分だってそうじゃない!』
「…え?」
『むぎ、むぎって。私のこと、一度も先生って呼ばないじゃない!先生だなんて認めない、そういう、ことでしょ!』
はっ……って息を飲んで、俯いて、下唇を噛んで、また泣きそうな顔してる。
「……ごめん」
ぷつ…っ
私の体のどこかから、また音が聞こえた。
さっき突然現れた、痛いほど心地よくあたたかに包まれた場所は、きっと私の幻想だ。
『たったの3日間じゃ、私は時田くんに何もできないし、何も教えられないし、私は先生なんかじゃないんだよ。』
「でもさぁ…でも…俺がいればさぁ、生徒がいればさぁ…むぎ……ぁ…宮坂先生は、ちゃんと先生だろ。」
『違うよ!保健室で二人で映画見てるのは、先生でも生徒でも授業でもないんだよ。私は先生になりたいだけのただの大学生で、もうすぐここからいなくなるけど、今までも、この先も、時田くんの先生は、早瀬先生と島崎先生のほうなんだよ。』
「そ…んなこと………ぃ…言うなよぉ…」
さっき優しく私を包み込んでくれた手のひらを、落ち着かない風に握ったり、開いたりしてる。
そして、ぎゅっと瞑った目からぽつりと涙がこぼれたのは見えなかったことにして、ポータブルビデオプレイヤーにVHSを吸い込ませると、今度はシュルシュルと軽快な回転音が響いた。
『どこまで行った?家にバズーカ打ち込まれるあたりからでいい?』
時田くんは無言のまま首をひとつ縦に振ると、椅子に浅く腰かけて、机に対してちょっと斜に構えるみたいに不自然に座った。
それから最後まで一言も話さず、睨み付けるみたいに画面を見てた。
もうどうでもいいや。
こうして時間をこなせばいい。
どうせもう、明日になったら、全部……終わりだ。
次の朝
朝の8:00を過ぎても時田くんは保健室に来なかった。
トントン…カラカラ…
ノックして返事も待たずに扉が開くのは、ここがノックの主が島崎先生だから。
「宮坂さん、おはよ。時田くんは?」
高め設定の声が、昨日の一件のせいで私の神経を逆撫でする。
インナーは違うけど、きのうと同じスーツだし、
鎖骨の下のところに、赤い跡がはっきり見えてるし。
はあぁぁ…。
なんか、もぉ、全部いやだ。
『おはようございます。時田くんはまだ来てないみたいです。』
「あらそう…?今日最終日なのに。残念ね。」
『…そ…ぅ…ですね。』
「気にすることないわ。時田くん、お休みしたり、遅刻早退したり、気まぐれだから。」
鼻唄混じりに花瓶の水を換えている島崎先生の後ろ姿を見ていたら、自分の中のありとあらゆるネガティブで汚ならしい感情が込み上げてくるみたいで、息が苦しくなって、私はぼんやり外を見た。
楽しそうにおしゃべりしたり、ふざけ合いながら、笑って通りすぎる生徒たち。
3年間という長くて短い高校生活の、何気ない1日の始まり。
誰かの終わりだとか、誰かがいないだとか、そんなことに左右されずに始まる気だるい朝。
……ぁ。
来た。
島崎先生は気づいてない。
きっと早瀬先生も。
校長先生や副校長先生も気づいてない。
時田くんみたいに“学校に来ない”とか“教室に行けない”なんていう露骨なシグナルを出してくれる子はまだ軽傷だということを。
毎日遅刻もせずに学校に来て、成績だってごく平均、他の生徒と揉め事を起こすこともなく、“普通の生徒”の鎧で武装している子にこそ、その内面に広がる闇や心に刺さる棘に苦しみもがき叫んでることを。
少し明るい髪色、ローファーのかかとを潰して履いて、ネクタイはだらしなく緩めてる。
もちろん、両手はポケットの中。
そして思わず目を引く派手な顔立ち。
退廃的で終末感を漂わせ、虚無の目でなんだか寂しそうな横顔。
スクールバッグからは今日もドラムスティックが2組、顔を覗かせている。
窓を開けるとその子は立ち止まって、保健室を覗き込んで隅々見渡したあと、ゆっくりきらりと微笑んだ。
「おっはー。」
『おっはー、じゃなくておはようございます、でしょ?Yシャツのボタンは上まで閉める!ネクタイも緩めない!ローファーのかかとは踏まない!
「あー!はいはい!うるせぇうるっせぇー!」
ポケットに突っ込んでいた両手を出して、耳の近くでバタバタさせながらニヤリと笑って見せる。
『いますぐ、ここで直しなさい。大江くん。』
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