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「見事なもんだなあ。空全体がプラネタリウムみたいだね」
まさに満天の星だ。夜空いっぱいにちりばめられた煌びやかな星のドームがどこまでも広がっている。
「今日は特に良く晴れてますからね。本当に、きれい」
腕を組んでそぞろ歩く二人の足音が宵闇の中にのんびりと響く。遠くの方に、渓流を流れる水の軽やかな音が聞こえてくる。
「ねえ、沢に降りてみましょうよ」
沢へと下る道は、足元が悪く、少し急な坂道になっている。慎重に気を使いながら降りる間に、私の腕につかまる彼女の手に、心持ち力が入ったように思えた。私も彼女の腕にそっと手を添える。さらさら流れる清流の心地よい音がだんだん近くなってくる。
沢の側まで降りて改めて空を見上げると、なんだか更に星の数が増したように思えた。
「これはまた、一段と凄い星の数だなあ。低い所に降りたのに、寧ろ星が増えるなんて、何だか不思議だね。なんでだろう……あっ、流れ星だ」
天空を右から左に横切って、大きな星がひとつ流れて行った。
「すぐにわかりますよ」
いたずらっぽく彼女が笑う。
その途端、頭上に散りばめられた銀色の星々が急に動き始めた。天を覆う巨大な壁画がいきなり動き出したようで、一瞬どきりとした。
「あれは……」
満天の星の半分ぐらいは蛍だったのだ。漆黒の闇の中、縦横に優雅な曲線を描きながら無数の蛍が飛び交っている。
「……蛍だったのか。あんなに沢山……」
「素晴らしいでしょう?この沢は特に水が綺麗だから、蛍が沢山集まってくるんですよ」
夜空いっぱいに広がった、色とりどりの星たちの輝き。その合間を飛び交う蛍たちの青白く優雅な光。軽やかなせせらぎの音以外に何も聞こえない静かな夜。そして、私に腕を預けて歩く女性の甘やかな髪の匂い……今、私はとても幸せな気持ちに包まれている。
だが、たった一つだけ気がかりなことがどうしても拭いきれない。こんな素敵な夜に包まれながら無粋な言葉は口にしたくなかったが、どうしても聞かずにはいられなかった。
「ところで、君は誰だっけ?」
この女性は誰なんだろう。私の恋人?妻?知人?自分との関係も、名前すらも思い出せない。何故自分はこの人と歩いているんだろう?
私の問いに、いたずらっぽく彼女が答える。
「すぐにわかりますよ」
ふと気づくと、蛍の光ひとつひとつが妙に大きくなっていて、その表面に妙な模様が浮かんでいるように見える。
だが、よく見るとそれは模様ではなく、人の顔だった。男も女も大人も子供も……色んな顔が闇の中を思い思いに飛び回っている。
この光は蛍なんかじゃない。人魂なんだ。
私はここで無数の死人に囲まれているんだ。
そうだ……私の乗っていたバスが、走行中に沢に転落して……隣に乗り合わせた女性客が、悲鳴をあげながら私の腕にしがみついてきて……
「わかったでしょう?」
絡めた彼女の腕が、二本の骨になった。
[了]
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