第1話 凛虹の仕事 

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第1話 凛虹の仕事 

 私は、あの海での誓いを守りながら、高校を卒業し、大学、大学院に進んだ。  現在、大学で講師として、外国人留学生に日本語を指導している。加えて毎週土曜日は、塾で古典の特別講師もしている。  コミュニケーションを主とした人間相手の仕事で忙しいと、プライベートで人なんて恋しいと思わない。むしろ、一人になる時間が必要なくらいだ。  忙しいこの生活は気に入っている。余計な事を考えずに済むのだから。  *  4月、第1土曜日。  塾に着き、ガラス扉の前に立つと、見慣れない男性――薄い茶色いスーツに、茶髪の毛先をワックスで存分に遊ばせている――が、スタッフルームに立って、私を観ていた。  チャラい……。  心の中でため息をつくと、そういえば塾長が、「元ホストを塾講師として採用する」と言っていたと思い出した。  あれ、冗談じゃなかったんだ……。  スタッフルームに入り、彼に会釈だけして通り過ぎようとすると、チャラ男は私の顔を覗き込み、笑顔全開で、 「はじめまして! 田中善太です!」  と、愛想よく挨拶をした。近くで彼を見て、なるほどイケメン講師を前から採用したいと塾長はおっしゃっていたが確かにイケメンである、と思ったが、田中善太というその平凡な名前が似つかわしくない、とも思った。  私は、彼の前でぴしりと姿勢を正し、 「神田凛虹と申します。よろしく」  と言い一礼した。  関わりの少ない奴にはこれで十分だ。さっと歩き出し、教材を本棚から取り出し、教室へ向かった。  *  ここシンケン塾では、毎週、約40人の高校生の古典クラスを指導している。  生徒の幾人かは、「無理やり親に入れられたし」「やりたくないし」「古典嫌いだし」という雰囲気丸出しでやる気ゼロ。だらりとしている。  致し方ない。疲れているのだ。  彼らは、その青春と呼ばれる時の中で戦っている。己と勉強と。そして疲弊している。どうしていいのか分からずに……。    青春時代で人生が決まる、と言っても過言ではない。  勿論、いくつになっても人生をやり直せるというのは真実だろう。しかし、青春時代のトラウマ、もしくは行いは、人生に大きく影響する。  私は、思春期に勉学以外は失敗した。  それでも生きている。生きていく上で、勉学は大事だ。だから私は精一杯、彼らの人生に少しでもプラスになるよう願いながら指導している。しかし、私は、彼らには精神的にも失敗して欲しくない。  そのために私が彼らのために出来ること。それは……。  嘘をつかない。裏切らない。愛想もよくしない。ただ、はっきりと現実を伝えることだ。今から彼らが出て行く社会――思ったよりもキツイ中――を生き抜くための準備をさせるために……。  その日、新しい男子生徒が「マジ古典って、をかしをかし、うるせーよ」と、思春期特有の反発心を込めた言葉を放ったので、いつもの通り、息を大きく吸ってから、大きな声で伝えてやった。 「昔はなぁ! なんたらをかし、なんたらをかし言ってたんだよっ! お前らがスマホを使用するくらいの頻度でなっ!」  すぐさま、スマホを高速でスクロールするジェスチャーをしながら、をかしをかしと言ってやる。生徒たちは笑う。また大きく息を吸って言ってやる。 「今の時代も源氏物語の時代もそう変わらんわ! 良いでござるな! 生きるってのはなぁ……。戦いだ! 生き抜け! ……では、68ページを開くでござる!」  「御意(ぎょい)!」と、生徒たちが一斉に答える。  新しい生徒は、少々驚くようだが、彼らもまた周りに合わせ、すぐに「御意」と言うようになる。  「ござる」と「御意」。これは、私の定番の授業スタイルだ。  ここ、シンケン塾で大学時代の講師アルバイト中に辿り着いたもので、この授業スタイルの噂が広まり生徒が集った。故に、塾長は私が大学院を卒業する頃、特別講師として土曜の夜の講座を続けて欲しいと依頼して下さった。  もちろん快諾した。  塾長の真梨子さんは、私の恩人だ。初めてあの誓いの原因を打ち明けられた人だ。信頼している。  大学院を卒業してから、2年経った今、私は26歳だ。
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