第2話 善太の転職先

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第2話 善太の転職先

 俺がホストクラブからシンケン塾に転職し、1週間経った――4月、第1土曜日。18時50分。  塾のガラス扉越しに、カラスのような真っ黒い女が現れた。その人は姿勢よく歩き、俺を見ながらドアを開けた。ホスト時代に培ってしまった装置が自動的に作動する。  ふむふむ。  黒いトップスに、黒い……シフォンスカート! このふっくらとしたスカート! これは真っ暗な精神状態だが女性でいたいよ! という願望があるゆえのシフォンスカート。  なるほど。  髪の毛はショート。顔に自信があるゆえのショートだ。確かに整っている。目はきりりとしているが大きくパッチリ二重。鼻は高すぎず低すぎず。  お化粧は……CCクリームだけだ。口紅は塗っていない。これはリップグロスのベースコートのみ。しかし、大きすぎない可愛い唇に自然な健康的な色が綺麗にくっきり映えている。女子として扱われたい願望アリです。  かなり、アリです。開けられそうです……。って、これはホスト時代に培った悪癖だ。心のどこがどのくらい開閉しているか計算し、心の扉の鍵の形を頭の中で作っていく。そして心を開き、ほぐし、満足してもらい、お金を頂いてきた。そうやって生きてきた。  この悪癖はもう治らんな……。  んな事を思いながら、「田中善太です!」と、その女に顔を覗き込むようにして挨拶をしたが、あまりの冷たい視線に続きを言いそびれた。  その人は、少しだけ微笑んで会釈をし、「カンダリコです」と言って、風のように過ぎ去り、教材を取り、教室に直行した。  ほぼ無視。  神田さんが教室に入ったのを確認してから、「スパイなんですか? 神田先生。全身真っ黒コーデ……」と、3人いた先生と塾長に小声で言うと、皆、クスクスと静か~に笑った。  塾長――真梨子さんは、「冗談も取捨選択してよっ! もう先生という立場なんだから!」と、言いながらメモ用紙にさらさらとペンを滑らせた。 「ちょっと珍しいでしょ。(りん)とした(にじ)と書いて、りこ。神田凛虹(かんだりこ)先生です」  渡されたメモを見ながら、俺はその名前を珍しいと思わなかった。 「凛虹先生の戦闘服、毎回黒だから笑っちゃダメよ。あれがシンケン塾の凄腕の看板ムスメ。彼女の授業の噂は広まっているの。見てきなさい。凛虹先生の授業を……」 「はーい」  *  教室のドアについている窓越しから凛虹先生の授業を覗くと、なるほどそこには、異様なほどの一体感が。  「御意!」と返事をする楽しそうな高校生たち。凛虹先生は、真面目な顔して「ござる」を連発し、笑いを取りながら非常にわかりやすく指導している。  「凄腕」を目の当たりにし、ショックを受けているところに、いつのまにか真梨子さんが隣に来て囁いた。 「すごいでしょ?」 「はい。俺にあんなの無理っすよ……」 「ふふふ。まあ、これからよ。まだ田中先生は研修中なんだから。凛虹先生にコツとか聞いてみればぁ~? ふふふ。答えてくれるかしらねぇ~?」」  真梨子さんは、意味深なトーンで俺を挑発し、怪しげなウィンクまでした。 「なっ?!」  答えてくれるかって? 元ホストナンバーワンを舐めてくれては困ります! 心の鍵をいくつ開けて来たと思ってんスカっ!  真梨子さんは、もう一度ウィンクし、くるりと俺に背を向けてコツコツとハイヒールを鳴らして歩いて行った。その後ろ姿にアッカンベーをするも、刹那、ドアが開いて頭にヒット。 「いてっ!」  凛虹先生が真顔で立っていた。 「何をしておられるんですか? 生徒たちの気が散ります」  ぶつけた箇所をさすりながら、 「あの、塾長が凛虹先生の授業を見て勉強しろって言ったで!」    と返すと、それを聞いた約40人の生徒が爆笑。  凛虹先生の取っていた笑いよりも大きかった事に優越感。にこっと思わず微笑んだが、しかし。彼女は無表情を貫き、「後ろの席に座っていてください」と、抑揚のない冷たい声を放った。  俺みたいな先生の見学はよくあることらしく、生徒たちは落ち着いていた。  *  *  *  生徒達が帰って、教室がガランとしたのは、21時40分。後片付けをする凛虹先生に近づいた。 「手伝いマース」 「結構です」  見事な拒否。距離感。ははは。  ホワイトボードを、丁寧に隅まで綺麗に拭き掃除をしている凛虹先生に質問をしてみた。 「あの授業の一体感はどうやって出したんスカ?」 「気合です」  ふーん、と言いながら、凛虹先生の背中を見る。見事な姿勢。 「先生姿勢いいですね。バレエとか習ってたんスカ?」 「弓道です」  ふーん、と言いながら、凛虹先生の指先を見る。きちんと短く切ってある。  おそらく、かなりの現実主義者。自炊。家事できるタイプ。でも綺麗な真っ白な手だ。キメが細かい。クリームをしっかり塗ってるなぁ~。プレゼントには、ハンドクリームだなっ! って、俺ホストじゃないからプレゼントしねーし! 悪癖だわ……。などと思いながら、ホワイトボードを拭き終え教材を手にする凛虹先生に、一応確認しようと声を掛けた。 「塾長からの指令でして、また、見学してもいいっスカ?」 「構わないです」  先生は、そう一言そう答えると素早くさっとドアの前に。電気のスイッチを消しつつドアを通過した。暗い教室内に取り残された俺。凛虹先生の冷たさに軽く放心状態になり、立ち尽くした。 「嫌われているんだ。きっと……」  そんなこと思ったのは、小学生以来だった。
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