第4話 凛虹の仕事帰り

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第4話 凛虹の仕事帰り

 塾での古典指導後、脳が一種の興奮状態に陥る。  気持ちを落ち着かせるため、私は、いつも帰り道の途中にある、コンビニ前の小さな公園のベンチに5分から10分程座る。住宅街にあるこの公園は、細い路地に囲まれており、あまり車の通りがないので静かだ。  ベンチに座ると、土の匂い。自動販売機の放つ弱い光が、心地良い。  夜10時過ぎだが、コンビニの隣だから、安全面でもあまり心配ないので、瞑想に丁度良い場所だと思って気に入っている。  いつものように、ぼうっと自動販売機の光を見ながら座っていたら、目の前に突然、男が現れた。それは先ほどの、田中善太というチャラ男だった。  彼が突然ペットボトルを渡してきた。そのラベルに「茶」という漢字が見える。「茶ら男」とも言うのだろうか。  ぼうっとしていたので、それをなんとなく受け取ってしまった。  すると、田中チャラ男は、私の顔を見て、「どうしたんですか? 虫でも食べたような顔をして」と言った。  虫を食べたあとの顔? 私の顔が?  文字ではなく、音として発せられた「虫を食べたような顔」に、あまりにびっくりして田中の顔をはっきりと見た。私たちは、目と目をしっかりと合わせた。約10秒。意味のない時間だった。  その後、彼は仰け反るように笑ってから、「嘘うそ! 可愛いですよ! 凛虹さんは!」と、またウソをついた。  くそっ。瞑想が台無しじゃないか……。  私は、しょうもない奴と出会った事を、なんとなく恥じた。それから落ち着きたくて、そのしょうもない奴から受け取ってしまったお茶を一口飲んで、「!」と、驚いた。  大好きなジャスミン茶だったのだ。  精神安定に良いと聞き、飲んでみたら美味だった。それから毎日飲んでいるジャスミン茶を、偶然にも彼が選んで私に渡した、という事実に、突然、この妙な出会いと意味のないと思った時間に納得してしまった。そして、何故自分が納得したのかわからない、と、思った。  ぼうっとジャスミン茶のペットボトルのラベルを黙読していると、「どうしたんですか?」と、もう一度、田中にはっきりと笑顔で訊かれた。  仕事以外で誰かと関わるのは、ほぼ皆無。あの16歳の時のしょうもない、だけど真剣に誓った「独りで生きていく」は、プライベートで人と関わらない生活スタイルを作った。だから瞑想から覚めた今、男性と二人きり、しかもプライベートで、という状況に気が動転した。 「あ。いや。ここで、休んで」  しまった! 休んで! だ。語尾がタイムスリップした! と焦ったが、しかし、特にそれを気にせず田中は、 「へー。休むんだ。授業のあとは……。それにしても見事でした。凛虹先生の授業を見習えって塾長が言うんですよね~。できるかな?」  と、田中はチャラい割に、案外真剣な表情で首を傾げていた。仕事の話になれば、先生としてのスイッチが入る。落ち着いた。 「はい。あの、2年はかかります。自分の指導方法とか、自分の合っている話し方とか、生徒との接し方とか、子供たちの学習方法も、それぞれだから難しいです。もう体得しかないですね」  そう答えると、田中は、にっ、と笑って下を向いた。 「それで、に辿りついたのか~」  そう言われ、恥ずかしい。刹那、「御意!」と、笑顔で敬礼までして、こちらを向く田中チャラ男。追い討ちだ。さすが元ホスト。苦手だ。  それから、彼は前を向き直し、両手を薄手のコートのポケットに入れ、 「塾長に不登校気味の子のクラスも頼まれてるんです。俺、大丈夫かなぁ」  と、真剣な面持ちでまた質問をぶつけてきた。 「はい。あの、真っ直ぐに向き合えば大丈夫です。私もやりました。塾長は必ず子供と向き合う姿勢を一度体得させるんです。だから一対一の不登校気味の子のクラスをするように勧められます。大丈夫じゃないですか? 元ホストなんですよね?」  そう言うと、田中は、膝を手の平でパチンと叩いて笑った。その笑いの意味はなんだ? と思って見ていると、 「俺のこと、元ホストってなんで知ってんスカ?」  と言うから、あー、そういう笑いかと合点がきいた時、もう田中は、私の傍らに立っていた。「塾長が……」と、何故、田中が元ホストだと知っているのかを言いかけたら、「寒くないっスカ?」とふんわり笑顔で訊く。「寒い」と答えると、ふふふ、と笑って、「ごめんなさい。嫌いなタイプですよね」と言う。脈絡がわからない。また、「どっちですか?」と話が飛ぶから、わからない。黙っていると、「帰り道」と言うから、あー、と言いながら、確かに寒いから帰ろうと立ち上がり歩き出すと、田中は少し後ろをついてくる。  なんとなく初めて会った人と歩くという事態に緊張してしまった。 「あれ? 俺と方向一緒だな~」 「そ、そ、そうですか……」  黒いトートバッグを握りしめながら、ぎこちない返事をし、ぎこちなく歩く私……。その全てが、大人になりきれないぎこちない生き方を表してしまっているようで、自分を恥じた。  少しすると、田中チャラ男は、極めて誠実なトーンで私に声を掛けた。 「凛虹先生」 「はい」 「毎週土曜、送りますよ。帰り道一緒みたいだし。指導方法とか、アドバイス欲しいし。塾長からも、指導の仕方を教われって言われているから、丁度いいかも。いいですか?」 「わかりました……。はい……」  公園から出て、100m程のなだらかな坂道を上がると、私のマンションの前に着く。エントラス付近で足を止めた。  すると、私がここに住んでいますとも言わないのに、もしかしたら、この先、道が二手に分かれているから、私からどっちに行きますか? と、尋ねるかもしれないのに、田中は、そこが私の住みかだと悟ったようだった。  眩しそうにマンションを見上げる田中。 「ふふふっ。ここか~。俺もついこの間まで、こういうとこ住んでたんだよな。でも今は、古びたところのほうが落ち着くから……」  彼はどうして、ここが私の住み家だとわかったのだろうか? と不思議に思いながら、マンションを見上げる彼をぼうっと見ていると、彼は、ふわっと、こちらに笑顔を向けた。 「お疲れーっす! 入って。凛虹先生が入ったのを見て、安心してから行く」  笑顔を崩さず言う田中チャラ男。見事なまでのビジネストーク。ビジネスきらきらスマイル。圧巻だ。「お疲れ様でした」と言い、会釈をし、顔を上げると、そこには、まだクラクラするような笑顔があった。  感嘆。  思わず、 「素晴らしいビジネススマイルですね」 と、口にすると、彼は噴き出して、 「ははは! もう! ビジネスじゃないし! 凛虹先生面白い!」  と言って、両手を前に出し、招き猫よりも可愛い猫のポーズをした。 「凛虹先生、頼りにしてるだお! 毎週よろしくだにゃー!」  と、可愛く斜めに首を傾け言うではないか。  完璧なビジネス愛想。偽りのない真心が込もっていることにびっくりし、思考も体も一時停止した。 「なんちゃって。もうそろそろ真面目に生きたいんですからぁ~」  と彼は言い、また優しい笑顔をした。突然、私の背中は寒気に襲われ、ブルブルっと震えた。 「凛虹先生。早く入って」  今度は、田中チャラ男はすこぶる紳士的なトーンで言う。猫からの紳士。どれだけのシフトを持っているのだろう、と、懲りずに私は驚いた。  もう一度会釈をしてから、マンションのエントランスへ。いつもの自動ドアを通過し、エレベーターに入りボタンを押そうと扉の先の道路を見ると、まだ、田中善太は変わらない位置にいて、優しいオーラを放つビジネススマイルをキープしている。  「驚嘆だ……」  愛想なんてできない私と、全く反対の人間に対する苦手意識は、あっさりと「尊敬」という念に変わった。私は、心を込めて一礼をし、エレベーターの「13」のボタンを押した。
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