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4話「三途の川」
日が落ちて夜の闇に包まれたまま雫と香織は砂浜にまだ座り込んでいた。
手をかざせば手の形が分かるほどの星が満天に広がる夜空を眺めて、時折流れる星を見つめて時間が流れていく。真っ黒な海は星をチラチラと映しながらはっきりとせず、波音だけが絶え間なく聞こえている。
「こんなに沢山の星を見るのは初めてだわ」
しみじみと香織が言った。
「不思議な流れ星ね・・・」
流れ星は必ずと言っていいほど水平線へ落ちていった。落ちて水平線を明るく輝かせてふっと消える。
無邪気に景色を楽しむ香織の横で雫はただ黙っていた。
煌めく夜空を見ながら雫の心の中には夕焼けと日の陰ったコンクリートの地面が見えている。思い出したあの瞬間、雫は自分が死んだのだと自覚した・・・つもりだった。
それなのに、まるで夢だったような気がしている。
(あんなに取り乱して焦って混乱したのに・・・・・・)
迫ってくるコンクリートの地面を思い出して不安と恐怖を感じた、確かにそう思ったのに・・・。今では映画の一場面を思い返しているような感じだ。
沢山泣いて香織に抱き締められて気持ちが落ち着いたせいだろうか。
(でも、何かが・・・欠けてるような・・・・・・)
それは身近な人の死をテレビで見ているのに似ている。
どうみても死んだだろうと思いショックを受け泣き叫ぶほどのリアルを感じるけれど、死体を目の当たりにするまでは心の何処かで「もしかしたら・・・」と希望を持たずに居られない。
(あの映像を見れば落ちたのだろう。落ちたに違いない、でも・・・)
「香織さんは死んだ瞬間・・・どうでしたか?」
雫の質問に香織が少し不思議そうな顔を向けた。
「どう・・・って、上から自分を見下ろしてたわ」
臨死体験のドラマでよく見かける光景だ。
「それまで体が重くて思うように動かなかったのに、急に体が軽くなってスッキリした気がしたの。それで体を起こしてみたら体がすぅって自然に浮き上がったのよ」
香織は初めて体験したアトラクションの話をするように楽しげに話す。
「姪っ子が戻ってきて私の名前を呼んで叫んで、私の体を揺すってお医者さんを呼んで来たりするのを見ていたわ」
話しながら香織の声が落ち着いていく。
「心電図って言うの? 線が真っ直ぐ延びててうるさかったわね。先生が死んだ時刻を告げるのを聞いて、あぁ・・・私死んだんだなぁって思ったの」
雫にはその記憶はなかった。
「どれくらいそうしてたかしらねぇ。親戚が少しずつ増えていって皆泣いたり呆然としたりしてたわね」
思い返す香織がしばらく黙っていた。
「後は・・・なんだか記憶が朧気で曖昧なんだけど・・・。自分のお葬式は見た覚えがある。私のお願い通りにこじんまりとしてて、好きな花を飾ってくれてたの。嬉しかったわ」
満面の笑顔を向ける香織を雫は黙ってみていた。
後はただ黙ったまま、それまでと同じようにふたりで星空を眺めて座っていた。
背後からほんのりと明るくなる気配を感じて雫は体をひねり草原に目を向ける。空が白々と明けていく景色をふたりで眺めた。
「さぁ、天国2日目。何しましょうかねぇ」
海と砂浜と草原があるばかりの場所で、何かをするほどの物も何もない。昨日と同じに数少ない人が見えるきりだった。
のんきな景色をただ眺めるのにも飽きてふたりは散策を始めた。とは言ってもただ海岸線沿いを歩くだけのこと。海から上がって呆然としている人々に目を向けたりしながら歩く。
「けっこう若い人が多いわねぇ」
黙っていたが雫も同じ事を考えていた。
「寿命が来たって歳には見えない人の多いこと」
60代位の人も少なからずいるのだが、香織の年代と思える人は飛び抜けて少ない気がした。
「うわあああーー! ママーー!!」
突然響き渡った子供の声に雫や香織だけでなく、茫然としていた人達も同じ場所に目を向ける。海から顔を出し男の子が大声を張り上げて泣いていた。
「助けて!! ママ! ママ!」
海面をバシャバシャと叩き溺れそうにバタついている。
「待って、待って坊や。大丈夫よ」
香織が走り出すのを見て雫も走り始め、香織を追い越して海に飛び込んでいた。水を飲みげほげほと咳込む男の子を引っ張って砂地へ連れてくる。
「ママぁ・・・! ひっくうっく、ひっく、助・・・け・・・・・・て。ママぁ!」
「大丈夫よ、もう大丈夫よ」
香織が男の子を抱き締めて背を叩く。
「ママぁーー! ご・・・ごめんなさい、ひっくひっく・・・」
「落ち着いて、大丈夫よ」
雫は謝る男の子を見て母親に虐待されている子供なのかと思い意深く見つめた。
「お母さんに怒られたの?」
香織の問いに男の子は頭を振って泣いている。
「留来君が・・・しようって・・・ひっく」
「何を?」
「うっうっ、ひっく。道路渡り・・・誰が上手に渡れ、ひっく、るか」
「道路渡り?」
「車が来る前に渡れるか・・・うっうっ・・・」
香織が雫を見上げる。雫も眉間にしわを寄せて香織を見つめた。幼稚園児か小学一年か・・・、幼い子供の遊びにしては危険すぎる。
「ぼく・・・転んじゃったの・・・うっく」
男の子を見るふたりの肩が落ちる。
「ママとパパが泣いてた・・・、どうしてこんな事にって・・・・・・」
そこまで話して男の子の顔がくしゃっと歪み、また大声を上げて泣き始めてしまった。
泣きじゃくり謝り嗚咽を漏らして鼻水垂らして、長い間泣いていた。その間、香織がずっと男の子を抱き締めているのを、昨日の自分を見るような思いで雫は見つめた。
やがて男の子は泣き疲れて香織の腕の中で寝息を立て始め、雫も脇に腰を下ろして寝顔に目をやった。
「こんなに小さいのに、ここに来ちゃうなんてね・・・」
吹く風に男の子の柔らかな髪が揺れる。
この男の子も海から上がった瞬間に、死んだ記憶があり死んだと分かっているように思えた。香織もそうだった。
(私は、どうして直ぐに分からなかったんだろう・・・・・・)
皆、死んだ後どうすればいいのか知らない。だから海から上がった人達が佇み座り込んで茫然としているのかもしれないと雫は思った。
遠くから少年の声が聞こえる。
透き通った声が遠くからでも内容が分かるほどにくっきりと聞こえていた。
「日が落ちたら川が生まれます。草原を越えて川を渡ってください」
もう直ぐ近くから聞こえる。
歩く足取りでいながらやけに早く近づいて来る少年から雫は目が離せなかった。
「川を渡ってください」
真っ直ぐに雫を見つめて少年が言った。
「戻れないの?」
「戻れません」
「絶対に?」
小さな溜息を付いて少年が断言する。
「戻る人はここへはたどり着けません。彼らが川と思っているのは、海です」
その説明に、雫は何故だか納得がいった。
(ああ、本当に私は死んでるって事なのね)
秋の夕陽のように速い足取りで太陽が沈んでいく。
振り返れば草原の向こうは既に暗く、遠くに小さな明かりが並んで見えていた。
「・・・ママは?」
男の子が目を覚まし母の姿を探す。
「ママもパパもここには居ないの。坊やは先に向こうで待ってましょう」
「ぼくが悪いことしたから?」
香織が困った顔で首を振る。
「私には何とも言えないわね。順番が変わっちゃったみたい、君が先に来ちゃったからしょうがないわね。お名前はなんて言うの?」
男の子の手を取って香織が他愛もない話をしながら草原へ向かい雫も黙って後に付いていく。
虫達が鳴き交わす月明かりの草原を歩く。
遠くに見えていた明かりは行けども行けども近づかず不思議に思う頃、唐突に川にたどり着いた。さらさらと流れる川がわずかな光を受けてうねうねと水面を揺らすのが見える。
草が途切れ川との間に敷き詰められた小石が冷たく光を反射して冴えた気配を放っている。
対岸はけっこう離れているようだが船の姿はなかった。その代わりに人が水面を立って歩いている姿が目に入った。
「雫さん見て、人が川の上を歩いてるわよ」
香織が目をきらきらさせて雫に声をかける。
男の子が香織の手を引いてぐいぐいと川に踏み込んでいく。そして、水面に立ち笑い声をたてた。
「見て! ぼく水の上に立ってる!」
満面の笑顔でそう言って、香織の手を離すと走り出した・・・が唐突に立ち止まる。
水面を見つめながら泣きだし、後悔と謝罪の言葉を並び立てて両親を呼びながらわんわんと泣き出してしまった。
どうしたのかと川へ足を踏み込む香織に次いで雫も川へ一歩踏み入れる。
ピシャッ・・・
雫の足は水に浸かり、もう一歩踏み出したもう片方の足も水に浸る。辺りに目を配ると多くの人が水面を歩いて渡っていくのが見えた。
(え? どうして?)
先に川に入った香織を見やると彼女も水面を歩いていた。男の子と同じように水面に目を向けて複雑な表情を見せている。
「香織さん」
声をかけたが香織には届かないようで、一歩また一歩と川を進んで遠ざかっていく。
「待って!」
ざぶざぶと水をかき分けて川に入る雫はもう腰まで水に浸かってしまっていた。後から来た人の足が直ぐ側を過ぎて行った。
「・・・なんで!?」
途方に暮れる雫の近くで「どぷん」と重い音がたった。
ぬめぬめとした長い物が音のした水面に潜っていくのが見えた。弧を描く太い胴体に月光を反射させる鱗がぬらぬらと並んでいるのが分かる。
ザブゥン・・・
離れた所に同じ様な物が見える。
繋がっている様に思えた。蛇のように長く太く大きな物が川の中にいる!
雫はぞっとして岸辺へ急いで上がった。
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