プロローグ

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プロローグ

 さつきが「それ」をテレビや映画、マンガ、昔話といった物語の中だけでなく現実でも起こり得ることを知ったのは、彼女がまだ八歳の時のことだった。  地元で毎年行われる夏祭りでさつきは二つ上の兄と連れたって、ずらりと屋台が並ぶ商店街の通りを歩いていた。  色とりどりの提灯に煌々と光る照明、ところどころ配置された灯籠。  いつもは空き店舗ばかりの閑散としたシャッター街に、食べ物や玩具、生き物を売る屋台が隙無くひしめき合っていている。  金魚すくいや輪投げ、射的、りんご飴、焼きそば、タコ焼き、魚釣り。  色とりどりの屋台に目移りし、限られたお小遣いの中で何を買おうかと、少女が頭を悩ませていたその時。  ちりん、と聞き覚えのある鈴の音が耳をかすめた。  さつきがふと足元を見ると、一匹の黒猫が通りすぎてゆく。  見覚えのある猫だった。彼女の幼馴染の家で飼われている黒猫だ。 「くろすけ?」  黒一色の丸い体に、煌々と光る金色の瞳。  首には銀の鈴を通した赤い組み紐が、蝶結びにされている。  名前を呼ばれたくろすけは立ち止まり、一瞬だけさつきを振り返った。  だが真っ黒な猫はすぐ前を向き、人混みの中をすいすいと泳ぐようにかいくぐり、狭く暗い路地裏に入っていってしまう。  さつきはそれまで、この黒猫を飼い主の家の敷地外で見かけたことがなかった。  脱走してしまったのだろうか。  だったら連れ戻してあげなくてはと、さつきは黒猫を追いかける。 「さつき? おい、どこ行くんだよ」  兄に呼ばれたのにも気付かず、ひと気のない路地裏に駆け込み————  気付いた時には、彼女は全く見ず知らずの場所に迷い込んでいた。  十歩も進めば行き止まりに突き当たるはずの路地裏を、さつきはいつの間にか抜けていた。  外灯が途絶え、突然パッと開けた視界に戸惑い、少女は思わず立ち止まる。 「えっ?」  さつきはそこで初めて、まじまじと周囲を見渡した。  目の前に広がっていたのは暗く、少女の記憶にない場所だった。  鬱蒼と生い茂る背の高い木々。うっすらと立ち込める霧。  鬼灯(ほおずき)の絵が描かれた四角い灯籠が、木々の合間を照らすように、ぽつぽつとまばらに置かれている。  その淡いオレンジ色の光を頼りに、さつきはかろうじて自分が森の中にいることが分かった。 「ここ、どこ?」  夏祭りの喧騒は影も形もなく、あたりは静まり返っている。  一緒にいた兄はおろか、周囲に人の気配すら感じられない。 「……お兄ちゃん?」  黒猫の姿はとっくに見失っていた。  来た道を一度引き返そうかと後ろを振り返っても、路地裏がどこにも見当たらない。  どこを見回してもただ暗い森に、ぽつぽつと灯籠が置かれているだけの風景が広がっていた。  あたりは真っ暗で、小さく頼りないオレンジの光だけでは視界がきかない。  周囲を覆う闇自体が夜空と違ってどろりと濃く、まるで意思を持った生き物がうごめき、少しずつ迫って来ているようだった。  ざわざわと生ぬるい風に枝葉が揺れる。さつきが顔を上げると、星も月もなく木々に覆われた空に大きな蛍にも似た、まるで火の玉のような青白い光がすうっとよぎった。  にわかに不安を感じて、少女はじりじりと後退る。  必死になって周りを見回したその時、背後でカサ、と茂みを鳴らす音が響いた。  少女は反射的に、音がした方を振り返る。  そして薄霧に包まれた茂みの向こうによく見知った人の姿を見つけ、ホッと胸をなで下ろした。  海老茶色の作務衣を身にまとった、小柄な初老の男性。  痩せた背中を丸めて歩くその男性は、さつきの近所に住んでいた男性だった。祖父母の友人で、さつきも幼い頃から顔なじみである「柴田のおじちゃん」だ。 「良かったあ、柴田のおじちゃー……」  声をかけようとした途中で、さつきは硬直した。  一拍置いて、少女はあどけない顔をがみるみるうちに青ざめさせてゆく。 「……うそ、なんで?」  男性がちらりと振り返る。  さつきはとっさに口を手で押さえ、すぐ近くの大きな木の陰に身を隠した。  どうして、と少女は自問自答する。  たった今見かけたばかりの男性の顔を思い返しながら、木の幹からそっと人影を覗く。  さつきはわけが分からず頭を抱えた。  おじちゃんがいるわけがない――――何故なら彼女がよく知る「柴田のおじちゃん」は二ヶ月前、病気でこの世を去っていたからだ。
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