第二章 絵本と神隠し

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『迷子のお知らせをします。愛知県からお越しの、多和田淳くん。愛知県からお越しの、多和田淳くん。水色のポロシャツに紺色のハーフパンツ姿の、黒いスニーカーを履いた、7歳の男の子です』  狭く薄暗い路地で立ちすくむさつきの頭上から、電柱に備え付けられたスピーカーから迷子のアナウンスが流れ出す。 『見かけた方はお近くの実行委員、または会場本部までお知らせください』  スピーカーから流れる機械的な女性の声や、大通りから響き渡るパレードの音楽や祭囃子をどこか他人事のように聞きながら、さつきは目の前に立ちはだかる(へい)を呆然と見上げた。  2メートル近いブロック塀。近くに梯子や踏み台になるような物はく、7歳の子供が自力でのぼるのはほぼ不可能に近い。  もう一度従弟の姿を探して周囲を見回したその時、さつきは塀のそばに小さな黒い靴が転がっているのに気付いた。 「これって……」  黒地に蛍光グリーンのラインが入った子供用のスニーカー。  おそるおそる拾ってみればまだ温かく、まるで今しがた脱いだばかりのように、うっすらと湿っている。  さつきは全身からどっと嫌な汗が吹き出すのを感じた。 「……淳くん!」  名前を呼んでも、返事はない。  さつきは小さなスニーカーを持ったまま、会場本部がある神社前に向かって裏通りをひた走った。  五時を過ぎて少しずつ日が暮れ始め、神社裏の河原では打ち上げ花火の準備が始まっていた。祭りの参加者が少しずつ増えてくる。  さつきは混み合う表通りではなく、神社の裏門から人通りの少ない屋台の裏を走った。そうして汗だくで息を切らしながら、会場本部の白いテント前までたどり着く。  テントの近くにいた珠枝と叔母が気付き、さつきに駆け寄ってきた。 「さつき!」 「さつきちゃん、淳は」  すがるように尋ねた叔母の顔もまた、汗まみれていた。スーツは着崩れ、ほつれた髪が頬やうなじに張り付いている。 「それが途中で見失ったきり、どこにも見当たらないの。でも、道端にこれが」  さつきはそう言って、右手に持っていたスニーカーを差し出した。 「淳のスニーカー……これ、どこにあったの!?」 「裏通りの路地裏に、片方だけ落ちてた。でも淳くん、裏通りにも路地裏にもいなくて」  汗だくで紅潮していた叔母の頬が、みるみるうちに青白く色褪せてゆく。  珠代も顔を強張らせた。叔母はさつきから小さな靴を受け取ると、それが本当に息子のものであるか確かめるかのように、赤く充血した両目をこわごわと凝らしたが———— 「淳……」  かすれた声で息子の名を呟き、スニーカーを片手に踵を返した。 「待って、綾さん!」  珠代の制止も聞かず、ふらふらと走り出す。綾を追いかけようとした珠代の背中に、さつきはとっさに声をかけた。 「ばあちゃん。私、航夜に頼んでみる」 「なんだって?」  叔母を追いかけようとする珠枝にそう言って、さつきはポケットからスマホを取り出した。 「これ……九年前に私がいなくなった時と一緒だと思う。叔母さんには黙ってたけど、淳くん、行き止まりのはずの路地裏に入っていったきり、突然いなくなったの」  さつきがわずかに声を低くすると、珠代は目を剥く。 「じゃあ、淳くんは……」 「もし昔の私みたいに《向こう側》に迷い込んだなら、航夜しか見つけられない」  真剣な顔で断言する孫を、珠枝は唖然と見返す。  通話アプリを立ち上げ、航夜に連絡しようとしていたさつきが、祖母の顔に一瞬だけ浮かんだ迷いと苦渋に気付くことはなかった。 「……待ちな、電話じゃなくて直接お願いしに行くんだ。今、知り合いに車を出してもらうから。その時、坊ちゃんに届けてほしいものがある。すぐに取ってくるから、今年はアンタが渡してくるんだよ」 「ばあちゃん、今はそんな場合じゃ」 「いいから渡しておいで。単なるもののじゃない、淳くんを探すのに必要な物だよ」  いつになく険しい顔をした祖母に気圧され、さつきはスマホを操作する指を思わず止める。  珠枝はすばやく本部のテントの奥へと分け入り、法被(はっぴ)に身を包み、ねじりはちまきを頭にしめた中年の男性を呼び出した。
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