第二章 絵本と神隠し

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岩尾(いわお)さん。急で申し訳ないけど、この子を辻堂家まで車で送ってやってもらえませんかね」  珠代は本部席の奥に座っていた男性を呼び出し、そう頼み込む。  祖母にならって、さつきも「お願いします」と勢いよく頭を下げた。  岩尾と呼ばれた中年の男性は、さつきも見知った人だった。  彼は夏祭りの最終日になると、毎年欠かさず珠代の家までとある物を届けに来る。  さつきは挨拶程度にしか言葉を交わしたことはないが、極端な猫背と大きなべっこうの眼鏡が印象的で、顔と名前は覚えていた。  岩尾は一瞬いぶかしげな顔をするも、気を取り直したように「いいですよ」と快諾する。 「花火の打ち上げまで時間もあるし、今日はまだ飲んでないから構わんですよ」 「ありがとうございます。できたら一緒にも届けていただけると助かるのですが」  珠枝がそう付け足すと、分厚いレンズの奥の目がぴくりと震えた。 「そら、ちょうど良かった。忘れたらアカンと思って、車の後ろに積んどいたんですわ」  事情を聞かずとも珠枝やさつきの様子から不穏なものを察したのか、岩尾は足早に近くの公民館の駐車場に向かい、端に停めてあったミニバンに乗り込む。  さつきも助手座席に座り、ポケットからスマホを取り出した。  待ち受け画像に表示された時刻は午後五時十五分。  この公民館から辻堂邸まで、車でおおよそ二十分弱。その間に事情を話しておこうと、通話アプリで航夜に電話をかけた。  しかし、幼馴染はなかなか出ない。 「…………」  さつきは一分ほど待ってはみたものの、痺れを切らして通信を切った。  もともと航夜はスマホを肌身離さず持ち歩くタイプではない。平素はもっぱら自室や居間に放置する。  だから今回もタイミングが合わなかっただけと自分に言い聞かせつつも、さつきは胸の内側から言いようのない不安が湧きあがるのが否めなかった。  スマホの画面を見つめたまま顔を曇らせる少女に、岩尾はちらりと視線を投げる。 「辻堂さん、出ぇへんかったか?」 「はい……」  少し時間を置いてからもう一度かけてみようと思ったが、メッセージを送っておこうと思い立ち、さつきは通信アプリを再度立ち上げる。  文章があまり得意ではないため、四苦八苦しながらも状況説明を試みる。  路地裏に入っていったはずの従弟が、突然姿を消したこと。  その状況が九年前の、さつきが「向こう側の世界」に迷い込んだ時とあまりにも似ていること。  やっとの思いでメッセージを完成させ送信したその時、ちょうど車が辻堂邸の門の前に停まった。 「お待ちどうさん。これ、坊ちゃんに渡しといてな」  岩尾は車のトランクから大きな紙袋を取り出し、さつきに差し出す。  さつきが反射的に受け取ると、紙袋はかなり軽かった。脇に抱え、岩尾にぺこりと頭を下げる。 「ありがとうございました!」  礼を言って素早く踵を返し、黒い数寄屋門に向かって駆け出す。  さつきが門を閉じるのを見届けてから、岩尾はぼそりと口を開いた。 「……大丈夫かねえ、あの子」  生ぬるい風が吹きぬけ、漆喰塗(しっくいぬ)りの塀から枝を垂らした柳をさらさらと揺らす。  湿り気を帯びた空気に岩尾が顔を上げると、どこからか遠雷がとどろいた。  玄関先にたどり着いたさつきも、不意に鼻をかすめた雨のにおいに空を見上げる。  辻堂邸の後ろにそびえる山の向こうから、入道雲が立ち込めていた。  暗く(かげ)りはじめた空を覆い隠すように、巨大な雨雲は瞬く間に山から街へと膨らみ傘を広げてゆく。  さつきがインターホンに指を伸ばすと、呼び鈴を鳴らす前に、大きな引き戸は内側から静かに開いた。 「航夜!」  先ほどと同じ、黒い夏羽織に薄鼠色の紬をまとった航夜が扉の隙間から姿を見せる。  幼馴染に出迎えられ、さつきはホッと胸をなで下ろした。 「さっき送ったメッセージ、見てくれた?」 「……ああ。事情はなんとなく分かった」 「よかった、じゃあ————」  さつきが改めて従弟を探してほしいと続けようとするのを遮るように、航夜はうつむいたまま、彼女が抱えている紙袋に両手を伸ばす。  ガサッと音を立てて自分の右腕から紙袋がすり抜けてゆくのを、さつきはポカンとして見下ろした。 「航夜……?」 「ごめん」  航夜は紙袋の把手(とって)を左手に提げると、消え入りそうな声で呟いて顔を上げた。  どうしたのと尋ねようとして、さつきはぎょっと目を見開く。 「帰ってくれ」    彼女を見返す航夜の顔はひどく強張り、はた目にもはっきりと分かるほど青ざめていた。
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