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航夜は一瞬立ち止まる。しかし振り返ろうとはしなかった。
「おじさんのこと、なんで教えてくれなかったの」
「……言えるわけないだろ」
押し殺した声で答え、さつきの手を振り払った。
「航っ――――」
呼び止める声を遮断するように、目の前の扉が音を立てて閉じる。続いて内側から小さく、鍵を回す音が響く。
廊下を歩く足音が遠ざかってゆくのを聞きながら、さつきは大きな玄関扉をぼんやりと見上げた。
「…………」
一人で暮らすにはあまりに広く大きな屋敷。
その奥で代々続く「あずかり処」という、危険と隣り合わせの家業。
年に2回の神事以外で敷地外へ出ることができないことをはじめとする、数々の重い制約。
それらを幼馴染の少年はたった一人で抱え込んできたのだと、さつきは今更のように気付く。
15歳の男の子が父親の失踪を、同年代の友人に打ち明けることすら許されなかった。
この2年間、航夜は一体どれほど辛かっただろう。心細かっただろう。
そう思った瞬間、少女の胸の奥に焼け付くような痛みが走った。
「……ごめん」
痩せた体を和服に包んだ、幼馴染の後ろ姿が脳裏によみがえる。
鍵を閉められた玄関扉の前で、航夜に届かないと分かっていても、さつきは消え入りそうな声で呟いた。
「気付いてあげられなくて、ごめん」
手元に残された大きな和錠を握りしめ、玄関に背を向ける。
しとしとと物悲しく降る雨が、視界を少しずつ白く煙らせてゆく。
傘を借りれば良かったと、門へと続く敷石を踏みながら、ほんの少し後悔した。
幼馴染に言われたとおり門を閉じ、鍵をかける。がちゃん、と重い音を立てて錠がおりた。
瞼を伏せ、さつき深く息を吐く。
次の瞬間、彼女は勢いよく顔を上げ、目の前に立ちはだかる広大な屋敷を毅然と見上げた。
「よし」
次第に強くなって行く雨の中、踵を返し、塀に沿って走り出す。
そうして屋敷の裏庭の前までたどり着くと、さつきは石垣に足をかけ、大和張りに組まれた塀板の縁を足場に、服が汚れるのも構わず塀をよじ登った。
「よいしょ、っと……」
すぐそばに植えられた枇杷の木に飛び移り、太くしなやかな枝をつたって裏庭に降りる。
後で祖母に大目玉を喰らうだろうなと、さつきは苦笑した。そして幼馴染みの少年を探して周囲を見渡す。
奥に見える母屋と離れ、敷地の隅にある大きな蔵。
それらから少し離れた処にぽつりと、池に周囲を囲まれて建てられた、六角形の黒い小さなお堂。
さつきは記憶の彼方に沈んだ、幼い頃の思い出を必死で呼び覚ます。
航夜の家に出入りする時、あのお堂には決して近寄ってはならないと、大人達から固く言いつけられていた。しかし一度だけ、航夜の父親がそこへ向かうのを見かけたことがあった――――
何かを思い出しそうだったその時、ちりん、と澄んだ鈴の音が鳴る。
さつきがハッとして振り返る。彼女の腰ほどまである庭石の上に一匹の黒猫が座っていた。
「なんだ、くろすけか」
胸をなでおろすさつきを、金色の瞳がじっと見上げる。
猫に構っている場合ではないと焦りながらも、少女は何故か目の前の黒猫から目をそらせかった。
「くろすけ……?」
くろすけは侵入者を見つめたまま、お堂に向かって顎をしゃくってみせた。それは妙に猫らしからぬ人間らしい仕草で、少女は目を丸くする。
「まさか、ついて来いってこと?」
まさかと思いつつも尋ねると、くろすけは「なぁお」とまるで返事をするかのように短く鳴いた。
さつきはいよいよ驚く。目の前の黒猫が鳴くのを、彼女は初めて聞いたからだ。
そういえば9年前、自分が向こう側に迷い込んだのもくろすけを追いかけていた時だった……少し迷ってから、さつきはお堂に向かって歩き出した黒猫の後を追った。
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