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生ぬるい風に乗って聞こえてくる音に、さつきは耳を澄ませた。
……あぉ…………あーあぁあーおぉ……
「なんだろ、動物の鳴き声みたいな……」
航夜が眉間に皺を寄せると同時に、さつきは気付く。
猫の鳴き声によく似たその音が、まるで自分たちへ距離を詰めるかのように、少しずつ大きくなっていることに――――
「……聞こえないふりしてろ」
「え?」
「いいから!」
――――――――――んぎゃああああ! おぎゃああ、あああああぁ!!
航夜が鋭く叫ぶと同時に、二人のすぐ近くからそれは響いた。
「わっ!?」
火がついたように泣く赤子のような声に、さつきが飛び上がる。
航夜はさつきの腕を掴むと、声がする方を振り返らず、足早にその場を離れた。
「航夜、この声ってまさか赤ちゃんの」
「振り返るな、罠だ。こっちが反応しなければ、そのうち鳴き止む」
「罠って……」
航夜は答えず、さつきの手を引いてどんどん先へと進んでゆく。
一分ほど経つと赤子の泣き声はピタリと止み、ようやく航夜は立ち止まった。
「こっち側の世界で赤ん坊の泣き声が聞こえたら、まず化け物の罠だ。無視しろ」
呆然と目を見開くさつきから手を離し、低く抑えた声で呟く。
「……化け物?」
「生き物でも人間でもないやつらのことだ。赤ん坊の泣き声は、人間が一番反応する周波数が出る。猫はその原理を利用し、赤ん坊の泣き声を真似て鳴くことで人の気を引く。同じ方法で人間をおびき寄せる化け物がいるってことだ」
化け物。それは一般的に「幽霊」や「妖怪」と呼ばれるもののことだろうか。
さつきはそう尋ねようとしたが、航夜の横顔に冷や汗がにじんでいるのに気付き、口を噤む。
そうして黙り込んだまま小径をたどってゆくと、二人の行く手に巨大な杉の木が立ちはだかった。
10メートルはゆうに超える巨木を、さつきはまじまじと見上げる。
両側を石で区切られた小径は、巨木の手前で途絶えていた。
航夜は特に動じることもなく、大木をぐるりと迂回する。足元は砂利と雑草、落ち葉でまばらに覆われたけもの道へと変わり、さつきはこれまで以上に慎重に歩を進めてゆく。
すると前方から、二人のよく知る甲高い声が響いた。
「お姉ちゃん!」
茂みをかき分け、小柄な少年が姿を現す。
さつきは思わず身を乗り出した。
「じゅ……もがっ」
同時に幼馴染に口元をふさがれ、目を白黒させる。
しかし先ほど言われたことを思い出し、「ごめん」のと謝るかわりに両手を顔の前で合わせた。
航夜は呆れた表情を隠そうともせず、さつきの口元からゆっくりと手を離す。そうして目の前に現れた少年に向き直ると、おもむろに問いかけた。
「君の名前は?」
「えっ? 淳だよ、お兄ちゃん忘れちゃったの……?」
あどけない声で答え、不思議そうに航夜を見上げる。
淳がほんの数時間前に航夜に会っていることを考えれば、ごく自然な反応に見えた。少なくとも、さつきの目には。
「ここ、どこ? どうしてこんなに暗いの?」
よく見ると、少年の目元はほんのりと赤く染まっていた。
泣いた跡だろうか――――さつきはこっそりと少年に目をやった。
右足にしか靴を履いておらず、小さな左足を包む水色の靴下は泥まみれになっている。
さつきは右足の小さなスニーカーを注意深く観察した。黒字に蛍光グリーンのラインが入ったそれは、確かに見覚えがある。
「おうちに帰りたい。ママ、どこにいるの?」
「淳くん……」
あどけない声を震わせ、淳がしゃくり上げる。
さつきは妙にいたたまれなくなり、航夜にひっそりと耳打ちした。
「あのさ航夜。この子、本物の淳くんだと思うよ。だってあのスニーカー」
否定も肯定もせず、航夜は幼馴染みの少女を一瞥する。
「淳くん、こっちに迷い込む前にスニーカーを片方落としちゃったの。あれと同じ靴だと思う。服装だって変わってないし……」
「そうだな。さっきうちに来た時に、あの子が履いていた靴と同じだ」
航夜は小さく頷くと、目の前の少年へと視線を戻した。
「家に帰りたいか?」
先ほどより幾分か穏やかな声で語りかける航夜に、少年は鼻をすすり、こくりと頷く。
「そうか。じゃあもうひとつだけ、確認させてほしい」
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