第三章 絵本と神隠し 後編①

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「お友達の名前は?」  さつきは質問の意図が掴めず、幼馴染をちらりと窺った。淳もきょとんとした顔で航夜を見上げる。 「おともだちって……ぼくの?」 「さっき教えてくれただろ。お母さんが捨ててしまう絵本や玩具(おもちゃ)を、君のところへ戻しに来てくれるお友達のことだ」  そういうことかと納得し、同時にさつきは驚いた。  慎重になる気持ちは分かるが、目の前の少年は淳にしか見えない。こんな小さな子供をそこまで疑うのか。 「…………」  だが、淳は顔を強張らせて黙り込んだ。  穏やかな語りかけから一転、航夜は感情を感じさせない冷えた声で、目の前の少年に言い放つ。 「答えられないよな。知らないんだから」 「えっ? うそ、どうして」  そうして淳の姿形をした「何か」から目を逸らさず、動揺するさつきに答える。 「あの子は僕を"お兄ちゃん"と呼んでも、お前を"お姉ちゃん"とは呼ばななかっただろ」  さつきハッと顔を上げる。  そうだ。従弟は自分を「お姉ちゃん」ではなく、彼の母親と同じように「さつきちゃん」と名前で呼んでたいたはずだ――――  次の瞬間、あどけない顔が別人のように歪んだ。幼い子供とは思えないほど禍々しくいびつな表情に、少女は愕然と目を剝く。 「うそ……」  少年の小さな体から、小さな(はえ)(たか)るかのように黒い(もや)が吹き出す。  同時に腐った魚のような、目鼻を刺す死臭がむっと立ちこめた。さつきは鼻を手でおさえ、後退(あとずさ)る。  どんどん濃く膨れ上がってゆく靄を、航夜は微動だにせず見下ろした。  その時、ひときわ強い風が吹き抜ける。   ――――――――ぁあああぁあああぁ……  不意打ちのように耳元で響いた叫び声に、さつきは怖気(おぞけ)立つ。それは先ほど聞こえた赤ん坊の泣き声とよく似ていた。  風にさらわれるように、黒い靄は死臭とともに忽然と消える。  幼い少年の姿は跡形もなく、彼が立っていた場所には片方の黒いスニーカーが転がっていた。 「そのスニーカー、淳くんの……?」  航夜は腰をかがめ、小さな靴を拾い上げる。 「だと思う」 「うそ。まさか、あの子に何か」 「いや。僕の予想が当たっていれば、お前の従弟はおそらく無事なはずだ。少なくとも、この(もり)を出るまでは」  幼馴染の言葉に深く考えず安堵し、「あれ?」と首をひねる。 「じゃあ、なんで今のお化けは淳くんの名前を知ってたんだろ……?」  いつになく神妙な顔で考え込む幼馴染の少女を、航夜はなんともいえない表情で振り返った。 「おおかた、誰かが大声で呼ぶのが聞こえたんだろうな」 「あっ」  さつきが気まずそうに黙り込む。  航夜はため息まじりに踵を返し、再びけもの道を歩き出した。  足元が見えないのではないかと、さつきはあわてて幼馴染の隣に並び、灯籠で照らした。  鬱蒼と茂る木々に囲まれ、月も星もない夜空に覆われた周囲は、新月の真夜中のように暗い。  時折、彼らの頭上を大きな鳥が飛んで行く。大きな蛍のように丸く、青白い光が、木々の合間を音もなくよぎる。  そのたびさつきはビクビクしていたが、しばらく経つと少しずつ慣れてきた。鳥や火の玉が自分たちに向かってくるわけでもなく、怖いが実害はなさそうだと判断したからだ。 「……さっきの消えちゃった黒い(もや)みたいなのって、何だったの?」  余裕が出来たさつきは、隣を歩く幼馴染に声を潜めて尋ねた。 「お前の従弟に成り代わろうとした悪霊のたぐいだろうな」 「淳くんに? な、なんで?」 「さあな。小さな子供相手に油断した僕らを喰うか。あるいは体を奪って何食わぬ顔で現世に戻って、僕らの人生を謳歌するつもりだったのか」 「喰うって……」  絶句するさつきを、航夜は横目で一瞥する。 「常夜(ここ)はあの世とこの世の境で、全てが混在する。死者も生者も、人間や獣、鳥、虫、魚、あるいはも。だからあの手の化け物は珍しくもないし、ましてや人間社会の常識や法律が通じる場所でもない」  航夜は淡々と語りながらも、迷いのない足取りで、前方にぽつぽつと置かれた灯籠に導かれるように森の奥へと進んだ。  「僕らを喰う」――――その言葉は鼓膜にこびりつき、脳内でぐるぐると渦を巻く。さつきはにわかに目眩がした。  航夜と一緒に従弟を探そうと決意した時、恐怖を感じなかったわけではない。  航夜の父親の話を知って、自分も同様に戻れなくなる可能性は頭の片隅によぎった。  だが彼女は「幼馴染の父親が戻らなくなったか」を深く考えていなかった。  自分は考えるより先に体が動いてしまう性分だと、本人に自覚がないわけではない。  だがここに至ってやっとさつきは、幼い頃から祖母に叱られる時に「考えなし」と口酸っぱく言われる理由が身にしみた。  航夜の隣を離れないよう歩きながら、さつきはふと足元に目を留める。  まるで道標(みちしるべ)のように十メートルごとの間隔で、木の根元に置かれたいくつもの紙灯籠。それらは一体いつ、誰の手で置かれたものなのだろう。 「ねえ、航……」  再度尋ねようとしたその時、航夜が不意に立ち止まる。  さつきもつられて幼馴染の視線の先をたどった。  鬱蒼と生い茂る木々の隙間に、白く丸い光が忽然と浮かびあがる。  さつきが目を凝らし、それが石灯籠の(あか)りだと気付くと同時に、更に奥に白い柱のようなものがぼんやりと見えた。
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