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————どうして、死んだはずのおじちゃんがいるんだろう。
後退った瞬間、さつきは足下に転がっていた枯れ枝を踏んでしまう。
ぱきりと乾いた音に、老爺はゆっくりと背後を振り返った。
「誰か、おるんかい?」
くぐもった低い声に、さつきの体がビクッと震える。
その声は彼女がよく知る「柴田のおじちゃん」の声に酷似していた。
けれど死んだはずの人間がいるわけがない。別人だろうと、さつきは木の陰からそっと顔だけを出し、おそるおそる目を凝らす。
でも、と彼女は自分の鼓動がどんどん速くなってゆくのを感じた。
顔も体格もそっくりだ。
何より陶芸家だった「柴田のおじちゃん」はいつも、あの海老茶の作務衣を着ていた。
あの人は、本当に自分が知っている「柴田のおじちゃん」だろうか……少女の頭の中で、混乱と恐怖がぐるぐると渦を巻く。
ごくりと唾を飲み下す音が鼓膜の内側でやけに大きく響いた、次の瞬間。
「……見つけた」
背後から何者かに肩をつかまれ、さつきは飛び上がった。
「ひゃああああああっ!?」
「さっ、叫ぶな馬鹿!」
だが飛び上がるほど驚いたのも束の間、耳元で響いた囁き声にさつきは目を丸くした。
おそるおそる、首だけで後ろを振り返る。
そこにいたのは紺色の浴衣を身にまとった、さつきより少し背の高い少年だった。
「こ、航ちゃん?」
「お前、なんでこんな所にいるんだ」
呆れたような、しかしどこか安堵をにじませた顔で少年……航夜が尋ねる。
「なんでって、くろすけが脱走してたから連れ戻そうと思って」
さつきがおずおずと答えると、航夜は顔をしかめた。
「あの化け猫……」
「ばけねこ?」
「……バカ猫って言ったんだ」
首をかしげるさつきに短く答え、ため息をつく。
「ねえ航ちゃん。ここ、どこ? あとねえ、柴田のおじちゃんとそっくりな人がいたよ」
航夜の顔がわずかに強張った。
生ぬるく湿った風が、生い茂る木々の枝葉をさらさらと鳴らす。
航夜はその問いには答えず、話題をそらすように
「みんな、お前のこと探してたぞ。颯太郎たちのところに戻ろう」
と、自分よりひとつ年下の少女に手を差し伸べた。
「え? でも、くろすけを探さなきゃ」
「いい、ほっとけば勝手に戻って来る。いつものことだから」
素っ気なく答え、さつきの手を掴む。
強引に手をつながれたことに驚いたが、さつきは幼馴染の右手をおずおずと握った。
彼女のそれより少し大きな航夜の手は温かく、わずかに汗でしめっていた。
ホッとしたとたん、さつきの両目にじわっと涙が浮かび上がる。
「泣くな、ちゃんと戻れるから」
「ありがとう、航ちゃん」
「え?」
しゃくりあげながら礼を言うさつきに、航夜はかすかに目をみはった。
「もう帰れないかと思った……さがしに来てくれて、ありがとう」
幼馴染みと改めて目を合わせ、さつきは航夜の右手をぎゅっと握り返す。航夜は少し気まずそうに、少女からふいっと顔をそらした。
それきり二人は押し黙り、鬱蒼と暗い森の中を黙々と歩いた。
航夜に手を引かれ、灯籠の明かりを頼りに森の中をしばらく道なりに進むと、前方に色とりどりの提灯の光がおぼろげに見えてくる。
森の出口とおぼしき開けた場所にそびえるボロボロに朽ちた黒い鳥居をくぐった二人の目の前に、細い裏路地が忽然と現れた。
「へっ? なんで、いつの間に」
あれほど鬱蒼と静まり返っていた周囲に、いつの間にか喧騒や街灯の光が戻っている。
大通りから聞こえてくる太鼓や笛の音、人々の声を呆然と聞きながら、さつきは辺りを見回した。
「怖がると思ったから黙ってたけど」
目を白黒させるさつきに、航夜は少し気まずそうに切り出す。
「僕たちはさっきまで、あの世にいたんだ」
「あの世って……天国のこと?」
「父さんは『常夜』って呼ぶ。死んだ人や物の怪たちが住む世界だ。生きている人間には基本的に見えないし、行こうと思ってもたどり着けない場所だけど、時々お前みたいに迷い込むやつもいるんだって、父さんが言ってた」
あの世。
どおりで死んだはずの人間がいたのだと、さつきの幼く柔軟な心は衝撃を受けると同時に、そこはかとなく納得する。
同時に先ほど見た死者や、森を覆い尽くす黒々とした闇を思い出し、今さらのように少女の体が竦んだ。
「……わたしたち、死んじゃったの?」
「死んでない、迷い込んだだけ。時々こういうことが起きるんだって。こっち側に戻って来られたんだから、気にしなくていい」
航夜は慣れた様子で淡々と、諭すように言葉を返す。
さつきは不思議な気分で幼馴染みの横顔を見上げた。先ほどまで、彼女は混乱と恐怖でどうしようもなく不安で仕方がなかった。
にも関わらず航夜は至って冷静で、自分とは対照的に落ち着き払った幼馴染が、八歳の少女の目にはひどく大人びて映った。
航夜は向こう側の世界に迷い込んだ自分を誰よりも早く見つけ出し、連れ戻した。まるでテレビやマンガに出てくる名探偵やヒーローみたいだと、さつきは外灯に浮かびあがる幼馴染の横顔をまじまじと眺める。
「なんだよ」
それはいつも不愛想で口数の少ない、さつきにとって「何を考えているかよくわからない男の子」だった航夜を見る目が変わった瞬間だった。
「航ちゃんって、すごいねえ」
面と向かってストレートに褒められた航夜が、ふいっと顔を背ける。
「恥ずかしいことあまり大声でいうな、馬鹿」
しかしそっぽを向いた航夜の頬や耳がほんのり赤く染まっていることに気付き、さつきは妙にうれしくなって、つないだ左手をぶんぶんと上下に振り回す。
「うわっ、急になにするんだ!」
「えへへへ。照れてる、照れてる」
怯えていたかと思えば早くも笑っている少女に呆れ、航夜はしばらくの間、なすがままに右腕を振り回されていた。
路地裏を抜けると、二人は大通りに出る。
すると次の瞬間、ひゅるるる、と火の玉が目の前に空にのぼってゆく。
一拍置いて、雲一つ無い夜空に黄色い花火がパッと咲いた。
「あっ、花火!」
さつきが叫ぶと同時に、ドン、と大きな音が空気を震わせる。
二人はさつきを探しているであろう家族たちの元に戻るのも忘れ、しばらくの間、次々と夜空に咲く色とりどりの花火に見とれてしまった。
――――しかし、そんな夏祭りの夜から九年が経った今。
さつきにとってヒーローだった幼馴染は、高校をやめて家に引きこもっている。
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