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「オッオエ――!」
「え? あ、ちょっと待ってマンボウ!」
羽をばたつかせ、いきなりマンボウが知恵の輪の片方を嘴で拾い上げた。そのまま羽を広げて、漆黒の森に向かって猛然と走り始める。
「ま、マンボウ……」
唖然としてその背を見送った。咥えた知恵の輪が緑の尾を引いて、やがてその軌道は暗闇に溶けて見えなくなっていく。
「あの知恵の輪、異形の者が寄ってくるってカイ様が……」
だがここは神殿の敷地内だ。ここに来てから異形を見かけないので、マンボウも安全かもしれない。
窓辺にぽつりと残された知恵の輪を見やる。対と引き離されたその姿は、まるで自分とジークヴァルトのようだった。
「マンボウ……失くさずまた持ってきてくれるかしら……」
さみしくて、リーゼロッテはしゅんとうつむいた。
◇
リーゼロッテの部屋から戻る途中、神官たちの話に耳をそばだてた。ベッティにあてがわれた部屋は、下っ端神官たちのいる並びのうんと奥の物置部屋だ。
下女とは言え女が神殿内にいることを知られたくないようで、覆面神官たちにフードを目深にかぶらされている。表向きは下働きの少年ということになっていた。
最近では警戒心も薄れたのか、ベッティのここら辺りの行き来は自由だった。神官たちは迎えに来て、目隠しをしたままリーゼロッテの元へと連れていくだけだ。
「なあ、知ってるか? 午後になってから王城で異形の者がまた騒ぎ出しているそうだ」
「ここ一、二年、なんだかそんな話が多いな」
のんびりとした口調のそんな会話が耳に入ってくる。ここ神殿では、王城の噂話はすべて他人事だ。そこはそれ、お互い様と言ったところか。
「そういえば、移動用の馬が一頭逃げ出したって聞いたけど、あれどうなったんだ?」
「それがまだ見つからないみたいでさ。厩舎担当が必死になって探してるけど、この雪の中だからなぁ」
「ああ、もうどこかで行き倒れたりしてるのかもな」
そんな神官たちの横を素早く通り、ベッティは急ぎ部屋へと向かった。夜半に神殿内の調査を行って、早朝にはリーゼロッテの元に行かなくてはならない。
最近では動物たちが食材を運んでくれるので、調達の手間が省けるだけでもありがたい。この時間に一度仮眠を取って、再び動き出す毎日を過ごしているベッティだった。
ふと遠くから怒号が聞こえてくる。それも大人数だ。ベッティは長く伸びる廊下の向こう、神殿の方向に耳を澄ませた。
喧騒、悲鳴、大勢のひとの行き交う気配。
神経を集中して、そんなことを感じ取る。その時遠くの廊下を、騎士服姿の人間が複数横切った。
(騎士団が来ている……!)
神殿の奥まで神官以外の人間は足を踏み入れることはない。来るべき時が来たのだ。ベッティは駆け足で部屋へと戻った。
掃除道具の下から仕事道具をかき集める。その袋を背負い、気配を殺してリーゼロッテの元へと向かった。
一度外に出る。早朝に向かうときはリスクを考えて、木々に目印をつけ迂回する方法を取っていた。だが今はそれでは時間がかかりすぎる。覆面神官たちが使う小路を進み、リーゼロッテが閉じ込められている建物に辿り着いた。
薄暗い廊下を進む。これはいつも目隠しされて連れていかれるルートだった。
目隠しをされながら何度も歩数を数えた。慎重に歩を進め、いつも鍵が開けられる箇所で足を止める。廊下の壁には扉は見えないが、探せば必ずあるはずだ。
(確かここら辺のはず……)
何もない壁を探り、ようやく鍵穴を探し当てる。そこに針金を差し込んで、幾度か中を探ると鍵が回る音がした。
「お前、何をしている……!」
「ちぃっ! おしゃべりオスカーですかぁ」
「なっ……!」
先手必勝でスライディングして足をひっかける。倒れ込む体に馬乗りになって、鼻っ柱を容赦なく拳で殴りつけた。ごっと嫌な音がして、覆面の鼻の辺りが赤く染まる。それでも手を緩めることなく、渾身の力で顔を殴り続けた。
「ふざけるなぁ!」
「がふっ」
オスカーの力任せの反撃で、ベッティの体が飛ばされる。転がるように受け身を取った床で、足首に激痛が走った。それをものともせず、ベッティは再びオスカーの懐に飛び込んだ。鳩尾に体当たりを食らわせて、ひるんだ隙に残り僅かな眠り針を瞬時に吹いた。
ベッティに振り下ろされそうになっていた拳が、力なく落ちる。そのままオスカーは床へと身を沈ませた。
すぐさま立ち上がり通路を渡る。この先の廊下に出れば、リーゼロッテの部屋へすぐにたどり着く。
突き当りの扉を開け、廊下を走った。リーゼロッテの部屋まで来ると鍵を針金で回し、ベッティは素早く部屋に入った。
「ベッティ、どうしたのこんな時間に」
「今すぐここを出ますよぅ、騎士団が動き出しましたぁ」
「えっ!?」
厚手の服を重ね着させて、自分の着ていたフード付きのマントを肩にかけた。手早くリーゼロッテの髪を一本の三つ編みにして、最後にフードを目深に被らせる。
「一度外に出てから本神殿に続く建物まで行きますぅ。追手が来たら厄介ですぅ、さぁ急いで時間はありませんよぅ」
手を引き廊下を戻る。途中で血まみれで倒れるオスカーに、リーゼロッテが身を強張らせた。そこを無理やり引っ張って、建物の外へと連れ出していく。
外は月のない真っ暗な世界だ。ベッティは慣れたものだが、リーゼロッテにしてみれば歩くのもままならないはずだ。
「手を引きますから信じてついてきてくださぃ。この路を行くと本神殿に続く建物に着きますぅ。中に入ったらリーゼロッテ様はぁ、真っすぐひたすら廊下を走ってくださいませねぇ」
「ベッティ、足を怪我していない?」
「先ほどオスカーとやり合いましてぇ。今は痛いとか言ってる場合じゃないのでお気になさらずですぅ」
吐く息を白く顔に絡ませながら、ふたりは小路を進んだ。半ばまで行ったところで、ベッティが制するように足を止めた。
「ヤツの気配が近づいてきてる……?」
媚薬畑で感じたあの神気だ。同じものを感じているだろうリーゼロッテも身を震わせていた。
「作戦変更ですぅ。このままリーゼロッテ様は森を抜けてくださいませねぇ」
ベッティが指笛を吹くと、どこからともなく一頭の馬が現れる。
「さぁこの馬に乗ってくださいませぇ。この先にある小川に沿っていけば神殿の入り口付近、王城の手前までたどり着けますぅ。しがみついていれば馬が勝手に進みますからぁ、リーゼロッテ様は振り落とされないことだけ考えてくださいませねぇ」
馬を伏せさせ、リーゼロッテの手を引いた。乗せようとするも拒むように、リーゼロッテはベッティの手を強く握り返してきた。
「ベッティは行かないの?」
「わたしが囮になって奴を引きつけますぅ。その隙にリーゼロッテ様は騎士団に保護を求めればそれで大丈夫ですからぁ」
「駄目よ危険よ、あのひとは普通じゃないの! お願いベッティも一緒に行きましょう?」
「足を痛めているわたしは却って足手まといですぅ。ふたりで逃げても奴に捕まるだけですよぅ。このまま二度と公爵様と会えなくなってもいいんですかぁ?」
ぐっと喉を詰まらせる。だがリーゼロッテはすぐ首を振った。
「それでもベッティだけを置いていくなんて嫌よ。それならわたくしが残るから、ベッティが助けを呼んできて。ね、お願いだから囮になるなんて言わないで」
「……どうしてリーゼロッテ様はぁ、こんな時までお人がよろしいんですかねぇ。ベッティが犠牲になればリーゼロッテ様は元の生活に戻れるんですよぅ?」
「それだったらベッティだって一緒じゃない。わたくしを見捨てればベッティは危険な目に合わないもの」
「そこはそれわたしは任務ですのでぇ」
「だけどカイ様に言われたわけではないでしょう? ベッティだけが残るなんておかしいわ」
「なんで分からないんですかねぇ。リーゼロッテ様のお命とベッティの命、どっちが大事かなんて分かり切ってるじゃないですかぁ。リーゼロッテ様は望まれる側の人間。失えば多くの者が嘆きますぅ」
「命に重さなんてないわ! ベッティよりわたくしが優遇されるなんて間違ってる。それにベッティに何かあったらカイ様がかなしまれるわ!」
涙目でまくし立てると、ベッティはうんざりしたように息をついた。
「わたし、リーゼロッテ様のその偽善っぷり、大っ嫌いなんですよねぇ。正直虫唾が走りますぅ。このままじゃ本当にひどい目にあいますけどよろしいんですかぁ? そんな能天気なことが言えるのはぁリーゼロッテ様がこの世の地獄を見たことがないからなんですよぅ」
冷たく言い放たれて、リーゼロッテは絶句している。涙をこぼしながら、それでも小さく首を振った。
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