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マテアスの頭に鎮座したままの鶏が、片羽で進行方向を指さした。この鶏は時折今の仕草をする。どうやら道を外れた時に、そっちじゃないと教えているようだった。
その鶏が立ち上がり、大きく羽をばたつかせた。頭皮に爪が食い込んで、マテアスから悲鳴が上がる。
「いたっいたっ、そんなに掴んだら禿げます!」
「オッオエ――!」
「うおっ」
目の前が紅に染まって、マテアスの体は押し流された。突然の瘴気の濁流になす術もない。全身が粟立って、気づくとマテアスは森の小路に立っていた。異形もいない。頭に鶏が乗っているだけだ。
「旦那様?」
はっとして気配を探る。しかしジークヴァルトの姿はどこにもなかった。先ほど一瞬感じた紅の瘴気は、いつか公爵家を襲ったものだ。それが今は微塵も感じ取れない。
「一体何が……」
「オエっ」
鶏がいいから先に進めと指示してくる。確かにこのままここにいても仕方ないと、マテアスは鶏の導きのまま森の中を進んだ。
ほどなくして鶏は、道なき道を指し示した。道を外れると頭を強く掴まれるため、仕方なく雪の中に足を踏み入れる。誰かが一度通った跡がある。それも複数人のだ。
(獣の足跡もありますねぇ)
大型犬のような足跡に、狼でないことを祈る。茂みを揺らしながら前進すると、ふいに目の前に殺気を感じた。
繰り出された拳を咄嗟に受けて、組み手を取ったまま対峙する。すぐに息を飲んだのは、目の前の相手も同じだった。
「マテアス?」
「エーミール様?」
ふたりの声が重なった。ぽかんと見つめ合って、互いに状況を把握する。同じ場所を目指し踏み込んだのだ。出くわしたところで不思議はない。
「ジークヴァルト様はどうした」
「それが敷地に入ってすぐにあり得ない数の異様に襲われまして……」
「はぐれたのか?」
「先ほどまで一緒だったのですが、紅の異形の瘴気に引き離されたようです」
「紅の異形? 本体が現れたのか?」
エーミールの問いかけにマテアスはいえ、と首を振った。不可解なことが多すぎて、さすがのマテアスも適切な判断が付けられないでいる。
「役立たずだな」
「申し訳ございません。それでエーミール様はこのような場所で一体何を?」
「今リーゼロッテ様のあとを追っている」
「こんな獣道をですか?」
「詳しくは忌み児に聞け」
足早に進むエーミールの後についていくと、できた雪道の先にひとりの騎士がいた。その前を犬が歩いている。
「やぁ、従者君」
「デルプフェルト様……ご無沙汰しております」
「その様子じゃジークヴァルト様もまだ、リーゼロッテ嬢と会えてないみたいだね」
「おっしゃる通りです……」
難しい顔でマテアスは頷いた。
「その格好で騎士に見つかったら、ちょっと庇いきれないかもよ?」
「そうだな。マテアス、お前はこれでも着ていろ。後でどうとでもして神殿から連れ出してやる」
神官服を差し出され、マテアスはおとなしくそれを身に纏った。これで騎士に連行される神官の出来上がりだ。ジークヴァルトの安否が心配だが、目的はリーゼロッテを取り返すことだ。今はふたりについて行くしかないだろう。
「それで何を追っているのですか?」
「ベッティのにおいを追ってるところ」
「ベッティさんの?」
「神殿の奥に潜入させてたんだ。恐らくベッティはリーゼロッテ嬢と一緒にいた」
カイの言葉にマテアスはエーミールの顔を見た。エーミールもいまだ半信半疑の表情だ。
その時、近くの空で破裂音がした。次いで煙のようなにおいが流れてくる。
「ベッティ!」
いきなり駆けだしたカイに遅れて、マテアスとエーミールは慌ててその背を追っていった。
◇
煙を頼りに雪の中を突き進んだ。いきなり開けた森の中、ベッティの姿を探す。あたりに黒い煙が立ち込めている。これはデルプフェルト家秘伝の煙玉だ。
先回りしたリープリングが一点に向かって吠え続ける。カイは一目散に駆け寄った。
「ベッティ……!」
力なく雪にうずもれる体を抱き起した。痛みからか、蒼白な唇がわずかに動く。外套を脱ぎ、手早くベッティを包み込んだ。怪我もひどいが触れる体が冷たすぎる。
「あるぇ? ここは天国ですかぁ?」
「ベッティ!」
沈みそうになる意識に必死に呼びかける。応えるようにベッティは、カイの腕の中、力なく親指をゆっくり立てた。
「カイ坊ちゃまぁ……わたし、やりましたよぅ……坊ちゃまの見立て通りぃ……奴は真っ黒もいいとこでしたぁ。リーゼロッテ様はぁ馬に乗せて川沿いに逃がしましたぁ……薬草畑は奴に燃やされてしまってぇ……そこの雪の下にうずもれてますぅ」
「ああ、分かった。今はもう何も言わなくていい」
「ですがぁこれが最期かと思うとぉ……少しぐらいは伝えとかないとぉ」
「最期になんかにさせないよ。ベッティは必ず助けてみせるから」
いつになく真剣なカイを見上げて、ベッティは意地悪そうな笑みを作る。
「カイ坊ちゃまはぁ、遺される者の痛みをぉ……少しは味わった方がよろしいのですよぅ……」
ふぅと息をついてベッティは再び瞳を閉じた。ひそやかな呼吸は続いている。ベッティを抱え、カイは立ち上がった。
向かう先にバルバナスが現れた。騎士たちを引き連れて、ようやくここに辿りついたようだ。
「うちの手の者です。媚薬畑は燃やされ、そこの雪の下にあったそうです。オレたちが通ってきた先に建物があります。そこに神官を数人拘束中です。詳しくはブラル殿に確認を。あとそこに幽閉されていたリーゼロッテ嬢は、馬で川沿いに逃がしたとのことです。じゃあオレはもう行きますから」
「医療班! 大事な証言者だ、絶対に死なすんじゃねぇぞ!」
瀕死のベッティを一瞥して、バルバナスが後方に怒鳴りつけた。去っていくカイの後を、医療に長けた者が慌てて追っていく。
「そこの雪ん下は媚薬畑のあった場所だ! 見失わねぇよう目印つけとけ! 日が昇ったら調査すんぞ! ニコラウスの言ってた建物は第二班に向かわせろ! そこにいる神官たちは別室に閉じ込めとけ!」
指示通りに騎士たちが動いていく。バルバナスは最後に、エーミールたちに目を止めた。
「おい、新入り。川沿いの捜索にも人員を割いてやる。指揮はニコラウス、いや、アデライーデ、お前が取れ」
それだけ言うとバルバナスは畑の方に向かった。入れ替わりのようにアデライーデが現れる。
「ちょっとエーミール。マテアスまで……ジークヴァルトはどうしたのよ?」
「それが神殿に入るなり異形の者に襲われまして……」
「神殿にも? いきなり王城に呼び戻されたと思ったら、暴れ出した異形の対処を命じられるわ、バルバナス様はさっさと行っちゃうわで、ほんともう散々だったわ」
「とにかくリーゼロッテ様の安否が心配です。逃がすとしたら王城側でしょう。そちらの方から捜索を」
「そうね。先にジークヴァルトと出会えてるといいんだけど」
白みかけてきた空を見上げて、一同は急ぎ捜索に向かった。
◇
紅い霧の中、朧げだった姿がはっきりとした輪郭を取った。いつかの夜会でリーゼロッテを襲った異形の者だ。禁忌の罪を犯した証を喉元に光らせ、対峙した女は妖艶な笑みを口元に刷く。
相手が何者だろうと関係はなかった。邪魔をするなら力ずくで排除する。それだけの単純な話だ。
間合いを詰め、手の内に力を溜める。その様子をたのしそうに、紅の女はじっと見つめていた。
ふいに耳に馬の嘶きが届く。逸れた注意の隙に、紅の女が大きく後方に飛び退いた。はっと視線を戻すも、濃厚だった瘴気がすぅっと引いていく。溶け込むように禁忌の異形は、闇の中に消えていった。
しばしその場に佇むも、女が戻って来る様子はない。溜めた力を解いてジークヴァルトは蹄の音を耳で追った。ほどなくして一頭の馬が現れる。
鞍はついているものの、誰も乗ってはいない。
ジークヴァルトの姿を認めると、馬は体を翻し来た道へと鼻先を向けた。振り返り、再び歩き出す。数歩進んだかと思ったら、またこちらを振り返った。
「ついて来いと言うのか?」
肯定するように、馬は小さく嘶いた。ジークヴァルトが歩を進め出すと、馬も一定速度で歩き出す。
見上げる空が徐々に白んでくる。木々が鬱蒼と生い茂る森に日が射しこむのは、まだ時間がかかりそうだ。
「リーゼロッテ……」
つぶやいて、ジークヴァルトは馬を見失わないよう、川沿いに奥へと進んでいった。
◇
「ベッティ……!」
いきなり飛び降りたベッティを振り返る。急に軽くなった髪に驚くも、駆ける馬上では確かめる術もない。
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