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揺れる背に悲鳴を上げ、頚筋に必死にしがみついた。ひとりで馬に乗ったことなどない。暗闇の中、疾走する恐怖で、リーゼロッテはぎゅっと目をつぶった。
一瞬だけ見えたベッティは、こちらに向かって何かを叫んでいた。その手に握られたのは自分の髪だったのかもしれない。遠目に輝いて見えたのは、確かに緑の力だった。
(ベッティ、どうして)
髪を切られたこと以上に、ベッティを置き去りにした事実に恐怖した。あの神官は正気ではない。いかにベッティと言えど、捕まったら無事では済まないだろう。
引き返したくとも馬を操ることなどできはしない。ジークヴァルトを押してでも、乗馬を習っておくべきだった。そんな後悔を今さらしても、何の意味もなかった。
熱いはずの涙が、すぐ氷に変わっていく。ぬぐうことも叶わない。時折すり抜けた木の枝が、この体を強く打ちつけてくる。寒さで指先の感覚が失われる中、それでもリーゼロッテは振り落とされないようにと、しがみつくことしかできなかった。
(早く、早く、早く!)
誰かに見つけて欲しかった。そしてベッティを助けに行ってもらわなくては。
体力も限界に近づいて、いつ落馬してもおかしくなくなってくる。だが気を失っては駄目だ。ベッティを見捨てるわけにはいかない。一刻も早く向かわなければ、ベッティがあの神官に捕まってしまう。
そのことを意識を保つ糧にして、リーゼロッテは闇夜を駆け続けた。
ふと浅いまどろみに降り立つ。暖を求めて目の前にある温かな毛並みに、しがみつくように顔をうずめた。耳元に熱い鼻息がかかる。はっとしてリーゼロッテは顔を上げた。
馬の背にもたれかかったまま、いつの間にか眠っていた。リーゼロッテに寄り添うように、馬は足を曲げて座っている。
見回すともう夜が明けていた。すぐ横に川が流れている。うすく靄がかかり、小鳥のさえずりがあちこちから響いてきた。
リーゼロッテが身を起こすと、足元にいた何かが一斉に逃げ散らばった。驚いて見やると、リスや狐、雪兎などが、遠巻きにこちらを振り返っている。
「みなが温めていてくれたの……?」
急に離れた温もりにそのことを知る。返事をすることなく動物たちは、思い思いの方向に森の中を消えていった。
ふいに馬が立ち上がる。支えを失って、リーゼロッテは雪の上に手をついた。
馬はせせらぎに向かって行った。川岸まで行くと首を下げ、一心不乱に水を飲みはじめる。
「喉が渇いていたのに、わたくしのために我慢してくれていたのね……」
静かに水を飲み続ける姿に、申し訳ない気分になる。自分は誰かに助けてもらってばかりだ。ベッティはあの後どうなったのだろう。怖すぎて、その先を考えることができなかった。
ふらつきながら立ち上がる。幽閉生活で衰えた体が、夜の乗馬で悲鳴を上げていた。
見ると靴もどこかに行ってしまっている。あかぎれた裸足のまま、川岸までなんとか行った。肩口で不揃いに切り取られた自分の髪が、流れる水面に映る。
ベッティは囮になると言っていた。それで髪が必要だったのだろう。水面に涙が落ちる。髪など生きていれば嫌でも伸びてくる。だが死んでしまってはどうにもならない。
涙を堪えてリーゼロッテは水を掬って口に含んだ。途端に乾いた喉が歓喜する。
「おいしい……」
踏みしめる雪よりも、水の方が温かく感じられた。近くの岩に腰を下ろして、リーゼロッテは足を浸した。ずくずくと痛んでいた足の裏が、少しだけ楽になる。
しばらくぼんやりしていると、膝の上、ぽとりと赤い木の実が落ちてきた。
見上げると、頭上の伸びた木の枝にいた白いテンと目が合った。続けてふたつみっつと実が落ちてくる。
「こんな場所にまで……いつも本当にありがとう」
あの部屋にも来てくれていた子だ。遠慮なくリーゼロッテは、赤い実を頬張った。少し苦みの残る実は、とてもやさしい甘みがあった。
種を口の中で転がしていたリーゼロッテの目の前を、何か蝶のようなものがふいによぎった。
こんな冬に蝶がいるはずもない。きらきらした粉を振りまきながら、それは不規則に飛んでいる。目を凝らすと羽が生えた少女のように見えて、リーゼロッテは思わずごしごしと目をこすった。
「……妖精?」
何度見てもそう見える。目覚めゆく森の清々しさと疲労が相まって、自分はおかしくなってしまったのだろうか。
妖精がこちらを振り返った瞬間、馬が突然駆け出した。置いていかれたことにショックを受けて、リーゼロッテは慌てて立ち上がる。
裸足のまま追いかけるも、すぐにその背を見失ってしまった。
「馬さん……」
呆然と立ち尽くして、途端に足が射すような痛みを訴える。雪の中を泣きながら、リーゼロッテはとぼとぼと歩いた。
(川からは離れないようにしよう)
下流に向かって歩を進める。神殿が広いと言っても限りはある。川を目印にすれば、いつかどこかに行きつくはずだ。
それでも雪や木々に阻まれて、川沿いを離れてしまう。途方に暮れてリーゼロッテは、来た道を戻ろうかと足を止めた。
振り返った鼻先に、先ほどの妖精がいた。見つめ合って、ふたり同時に瞬きをする。
声を上げそうになるが、驚かしては可哀そうだ。近くで見る妖精は、リーゼロッテにとてもよく似ていた。長い髪は蜂蜜色で、瞳の色は綺麗な緑に輝いている。
顔を覗き込んだまま、妖精は羽を動かしその場で滞空飛行をしている。背中に手を回して小首をかしげる仕草がなんとも愛らしくて、リーゼロッテの瞳がきゅんと潤んだ。
「あ、妖精さん、待って!」
ふいに遠くへ飛んでいった妖精を必死で追いかける。小さい上にすばしっこくて、すぐに見失ってしまった。森の中、ひとりは耐えられなくて、リーゼロッテは木々の中を縋るように見回した。
ちょんちょんと肩をつつかれる。驚いて振り向くと、すぐそこに妖精が浮いていた。
今度はゆっくりと飛び始める。リーゼロッテを誘うように、振り向いては少し進んでいく。それを追いかけると、目の前に舗装された小路が現れた。雪の積もっていない、まっ平らな地面だ。
妖精の導きで、路なりに歩を進めていく。すると小鳥のさえずりの中、行く方向に馬の蹄の音が聞こえてきた。
「あ、馬さん! ありがとう、馬さんのところまで案内してくれたのね!」
瞳を輝かせてお礼を言うも、妖精の姿はすでになかった。今度こそはぐれないようにと、リーゼロッテは小路を急いだ。
曲がりくねった小路の先、木々の間から馬影が垣間見えた。ほっとして駆け寄ろうとする。だがその横に馬を引く人物がいて、リーゼロッテは思わずその足を止めた。
「ジーク……ヴァルト様……?」
信じられないが、あれが幻だったら今度こそ心が死んでしまいそうだ。
声も届かない距離にもかかわらず、ジークヴァルトははっとこちらを見やった。馬の手綱を離し、一目散にこちらに向かってくる。夢にまで見たあのジークヴァルトが。
気づいたら駆けだしていた。うす汚れた服も、ざんばらな髪も、痛む裸足のことも何もかも忘れて、なりふり構わず胸に飛び込んだ。
強く強く抱擁を交わす。
「リーゼロッテ」
「ジークヴァルト様……」
夢だと思いたくなくて、その頬に手を伸ばした。
きつく抱きしめられたまま、唇を塞がれる。確かめるように舌を絡め、お互いの熱を分け合った。
泣きじゃくりながら息もつけない。それでもリーゼロッテは、ジークヴァルトと何度も何度も口づけを交わした。
「ぁ……んヴァルト様……ベッティがわたくしを、んん、逃がして……くれて……」
口づけの合間に必死に訴える。助けに行かないと間に合わない。胸を叩くも、力なく縋りついているだけに終わってしまった。
「王城側からカイたちが向かったはずだ。今頃到着している。問題はない」
そう言ってさらに深く口づけられた。絡めた舌先から、青の力が包むように体の中に入り込んでくる。
あたたかい波動に、もう何も考えられなくなる。その青に溺れて、リーゼロッテは安堵の中、意識を手放した。
この後、ジークヴァルトはリーゼロッテを馬の背に乗せて、単独で裏口から公爵家に帰ることになる。
そんな事とは露も知らないアデライーデたちが、真実を知らされたのはその日の夕刻だ。徹夜で必死に探し回っていた面々に、鬼の形相をされたのは言うまでもない。
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