番外編 この身が朽ち果てるまで

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番外編 この身が朽ち果てるまで

 王妃の離宮は格好のサボりスポットだ。  父王フリードリヒ以外の男が入りこめないこともあって、そうそう見つかることもない。中でもこの奥まった庭の木の上は、ディートリヒが最近見つけたお気に入りの場所だった。  太い枝に座って背を預け、何をするでもなくただ流れる雲を眺める。  木々のざわめきも、頬に揺れる木漏れ日も、すぐ近くで枝を渡る小鳥の気配も、何もかもが心地いい。夏毛に変わりかけた白いテンが、飽きもせず小鳥たちを追いかけまわしている。  王太子として息をつく暇もなく繰り返される公務の日々に、ゆったりと過ぎるこの時間がとても贅沢なものに思えた。 (だがこれも今日で終わりだな……)  隣国の王女が龍のあざを持つことが判明し、少し前に自分の妃として迎え入れた。託宣の相手など、ずっと見つからなくても別に構わなかった。その方がずっと自由の身でいられたのに。  彼女を王太子妃として迎えるための交渉は、かなり慎重に行われた。国交のない状態でのいきなりの申し出に、予想通り向こうの欲が膨らんだからだ。  それに伴って、結局は自分が直接求婚しに行く羽目になってしまった。この国を出ることに興味は湧いたが、向かう理由には何とも納得できないものがある。 (国のためだ。もう仕方あるまい)  龍の意思に逆らうなど、どうあってもできはしない。彼女を迎え入れたのも運命だ。諦めて従うより他はないだろう。  形ばかりの婚儀を済ませたものの、いまだ手すら握ったこともない。あの病弱の他国の王女に、託宣の子など産めるのか(はなは)だ疑問だ。  ふと耳に衣擦れの音が聞こえてくる。生い茂る葉の間から見下ろすと、すぐそこのガゼボにあの令嬢が座っていた。いつものように分厚い本を胸に抱き、いつものようにその膝に本を広げる。  いつしかこの場にひとりの令嬢が現れるようになった。彼女はディートリヒの存在には気づいていない。そこのガゼボのベンチに座っては、いつでも本を読みふけっている。そしていつも時間が来たら、王妃の離宮へと戻っていくのがお決まりだ。  時に小さく微笑み、時に頬を染め、そして時に涙しながら。物語に没頭している彼女の百面相を眺めるのも、ここに来たときの楽しみだった。  どうやら今日は波乱含みの内容らしい。ハラハラした表情でページをめくる令嬢に、思わず口元が(ほころ)んだ。  同時に隣接した神殿の敷地から、令嬢を覗き込んでいる若い神官の姿が視界に入る。いつも笛を響かせているあの青年も、令嬢に懸想(けそう)しているようだった。 (あの青年()?)  己の考えに首をかしげる。いつまでも食い入るように覗き見している神官が何だかおもしろくなくて、ディートリヒは胸に忍ばせていたビョウを神官のいる辺りめがけて放り投げた。 (なんだ、そういうことか)  驚いた神官が奥へと逃げていく様子を目で追いながら、ディートリヒはひとり納得した。漏れ出そうな笑い声を必死に押し殺し、焼き付けるように令嬢の姿を瞳に映す。 「……本当の胸の内など、自分でもなかなか気づけないものだな」  だが今さら気づいたところで、どうなるでもない話のことだ。  見上げた空が陰り、ちぎれ雲が低く流れ去っていく。枝を揺らす風が強まって、雨粒が叩きつけるように落ちてきた。  白テンが慌ててディートリヒの首に巻きついてくる。茂みにいてもずぶ濡れになりそうな激しい雨だ。遠くで雷鳴が(とどろ)き、令嬢も本を胸に抱いて稲光(いなびかり)に身を縮こまらせている。  本格的に濡れる前に、枝を揺らし令嬢のいるガゼボへと降り立った。いきなり上から降って現れたディートリヒに、令嬢が小さく悲鳴を上げる。 「非常事態だと思って許せ。邪魔をするつもりはなかったんだが、止むまでここで雨宿りさせてくれ」 「あなたは……ディートリヒ王太子殿下……!」  呆然となったあと、令嬢は慌てて膝をつこうとした。その手を引き寄せ、跳ねる雨粒から遠ざける。冷えた体を囲い込んだまま、ディートリヒはベンチへと腰を下ろした。  その足の間に座らされて、令嬢が動揺したように目を泳がせる。懸命に体を小さくして、寒さなのか怖さなのか、その身を小刻みに震わせた。  細い首にアッシュブロンドのおくれ毛が流れ、似合っていないきつめの化粧は無理に強がる子猫のようだ。木の上からでは分からなかった瞳は綺麗な薄い水色で、今は不安と羞恥で揺れている。  肩の上から(くび)を伸ばし、白テンが確かめるように令嬢のうなじに鼻先を近づけた。鼻づらをピンとはじくと、慌ててディートリヒの服の中に引っ込んでいく。 「あ、あの、王太子殿下……」 「思った以上に小さいな」 「え?」 「いつもここで本を読んでいただろう? オレはあそこからずっと見ていた」  降りてきた木を見上げると、令嬢は同様に木を見上げ、ぽかんとしたあと頬を真っ赤に染めた。かと思うと今度は蒼白になってその唇を引き結ぶ。 「わ、わたくし知らぬこととはいえ、王太子殿下のお邪魔を……」 「いや、いい。邪魔をしたのはオレの方だ。それにオレがここに来ることは二度とない。これからも気にせず好きに使えばいい」 「……仰せのままに。ありがたきお言葉です」  そもそも王太子であるディートリヒが王妃の離宮の敷地内にいることの方が大問題なのだが、そこは笑顔で押し切った。どのみち貴族令嬢の立場で、王太子の言うことに逆らえるはずもない。 「……惜しいな」 「え?」 「こうして触れると手に入れたくなる。名を、教えてくれないか?」  まだ少女のように見える彼女は、それでも着ているドレスから社交界にデビュー済みだと見て取れる。令嬢などに興味がなかったディートリヒは、政務で必要な人間の顔しか覚えていなかった。 「わたくしはイジドーラ……イジドーラ・ザイデルと申します」 「ザイデル家の……?」  ザイデル公爵家は王家に対して、陰で不穏な動きを取り続けている。公爵には妹がふたりいたはずだ。姉のベアトリーセはデルプフェルト侯爵家に嫁ぎ、もうひとりは確かにイジドーラという名前だった。  記憶を辿っていると、空が嘘のように晴れあがっていく。切れた雲間から陽光が差し込み、腕の中のイジドーラが眩しそうに瞳を細めた。  ディートリヒは立ち上がり、脱いだジャケットを華奢な肩にかけた。 「イジィは雨がもう少し落ち着くまでここにいるといい」 「は、あ、いえ、あの」  肩のジャケットに恐縮したのか、愛称で呼ばれたことに動揺したのか、耳元で囁かれたことに驚いたのか、イジドーラが中途半端な言葉を返してくる。
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