番外編 この身が朽ち果てるまで

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 次に会うのは(おおやけ)の、王太子と公爵令嬢という大きな隔たりがある立場の時だ。  去り際に、思うよりも早くイジドーラを胸に引き寄せる。そのまま小さな唇を奪いとった。  これ以上となく見開かれた瞳のイジドーラから、力が抜けるまで離さなかった。漏れる吐息すらからめとって、ひとつも逃がしたくないと真剣に思った。 「必ずイジィを迎えに行く」  名残惜しく頬に指を滑らせてから、ディートリヒはガゼボを後にした。  王太子の気まぐれだとでも思われたのか、次に会ったイジドーラは想像以上に平然としていて、それがものすごく面白くない。  あの誓いが嘘ではないと証明するために、その日からディートリヒのあがく日々が始まった。      ◇  自分を隠すように抱え込むディートリヒに、呆れながらカイが礼を取った。 「ああ、もう……今すぐ御前失礼いたしますから、そんなに怒らないでくださいよ」  後宮からそそくさとカイが出て行って、部屋の中が一瞬だけ静寂に包まれる。王冠を降ろしてからディートリヒは、昔のように子供っぽくなったように思う。王太子時代のディートリヒは、とても自由奔放な性格だった。 「まぁ、ディートリヒ様。昼間からこの手は何事ですか?」 「いいだろう? 退位してあの(わずら)わしい声も聞こえなくなった。やっとオレのまま、イジィに触れられる」  いたずなら手をやんわりと掴むも、その動きは止まらない。あれよあれよという間に、美しく結い上げられた髪が(ほど)かれていった。 「ディートリヒ様……もうしばしお役目はきちんとこなします。ですがセレスティーヌ様の遺言は、すでに十分果たされたと思いますわ」 「……どうしてここでセレスの名が出てくるんだ?」  不満そうに言ったディートリヒを、イジドーラは不思議そうに見つめ返した。 「もしかしてオレがイジィを王妃に迎えたのは、セレスがそうしろと言ったからだと思っているのか?」 「ええ、もちろん。そこのところはきちんと(わきま)えておりますわ。おふたりはわたくしを(いばら)の道から救ってくれた恩人ですもの。ディートリヒ様とセレスティーヌ様には本当に感謝しかありません」 「感謝か……」 「ですからこの身が()ちるまで、わたくしはディートリヒ様のものですわ。とは言えディートリヒ様はもう、わたくしのことを無理に大事にしなくても良い頃合いでございましょう?」  セレスティーヌの遺言通りに、ディートリヒは自分を王妃として迎え入れた。その王妃の座も退(しりぞ)いた今、ディートリヒがこの貧相な体つきの自分に固執する理由も必要もないだろう。この奥まった後宮は人目などほぼない場所だ。これからは(おおやけ)の場でだけ、夫婦の態度を(つくろ)えばいい。 「そうか、分かった」 「分かっていただけたのなら何よりですわ」  脱がされかけていた服装を正す。その手を離れようとするも、ディートリヒは逆に力を()めてきた。 「イジィがオレの本気を分かっていないことが痛いほどよく分かった。いや、いい、これはオレの努力の怠慢(たいまん)だ。今から一から教え直すから何も心配はいらない」 「え、あの、ディートリヒ様……?」  再び服を脱がされ出して、困惑気味にその名を呼んだ。不服そうな金の瞳が、イジドーラを見つめ返してくる。 「いい機会だから言っておくが、オレははじめからずっとイジィ一筋だ」 「ですがセレスティーヌ様とは、託宣の(つがい)同士でございましょう?」  その存在は半身を分け合った掛け替えのないものらしい。(つがい)を失った託宣者は、生きる意味をも失うと聞く。そのセレスティーヌを早くに亡くし、ディートリヒは長く孤独に耐えてきた。その穴を埋める役割をセレスティーヌから乞われ、イジドーラはこうして張りぼてながら、それを必死に果たしてきたのだ。 「まったく……セレスティーヌはいつまで経っても邪魔をする。あれはオレにとって(つがい)と言うより、いわば好敵手(ライバル)みたいなものだ」 「好敵手?」 「ああ、セレスを女として見たことはない。それにあれを抱いたことも一度もないぞ」 「え? ですが」  ふたりの間にはハインリヒを含めて三人の子ができた。王に似ていない子供たちに、貴族の間でセレスティーヌの不義の噂が流れたが、ずっとそばにいたイジドーラはそんなことは絶対にあり得ないことを知っている。 「セレスは胸を患っていた。子作りなど負担になる行為はしたくないと言ってきたのは向こうの方だ。だからオレは子種だけをセレスに差し出した」 「子種だけを……?」 「ああ……イジィを思って吐き出した精を、オレはあれに手渡しただけだ」  耳元で言われイジドーラの頬が染まった。頭ではその言葉の意味は分かったが、ディートリヒの言っていることに理解が追いつかない。 「隣国の知識とはおもしろいものだな。なんでも子が出来やすい時期があるとかで、子種を渡すたびに百発百中で子が生まれた」  はじめは第一王女のクリスティーナが。次に第二王女のテレーズが誕生し、次代の王となるハインリヒを授かるまで、それを三度ほど行った。そう言うとディートリヒはイジドーラの耳に口づけを落とした。 「イジィ……お前を手にするために、オレがどんなに時間と労力を費やしたと思っている。今さら逃がすなどできるわけないだろう?」 「ですが、だって……」 「あのガゼボで言ったはずだ。必ずイジィを迎えに行くと」  いつになく動揺した表情で、イジドーラはディートリヒの腕の中その顔を上げた。薄い水色の瞳があの日の少女のように、驚きと羞恥で揺れている。 「本当にイジィは昔のままだな」  ふっとやわらかい笑顔を向けられて、イジドーラの頬がますます朱に染まる。 「イジィ、諦めてずっとオレのそばにいてくれ」 「……この身が朽ち果てるまで、わたくしはディートリヒ様のものですわ」 「朽ち果て魂だけになっても、だ」 「仰せのままに……」  後宮でひっそりと(はぐく)まれるふたりの愛に、今さらだなぁと心底呆れ返るカイだった。
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