第1話 膝の上のまどろみ

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第1話 膝の上のまどろみ

「ヴァルト様……こういったことは婚姻を果たしてからでないと……」  誰もいないふたりきりの部屋で、うすい布を(へだ)てた向こう、リーゼロッテの鼓動が手のひらに直接響く。  驚きと羞恥で(うる)む瞳は、この旅の意味を知らなかったことを物語っていた。それを始めから分かっていても、もう指の動きを止めるなどできはしない。 「誓いならば先ほど泉で果たしただろう。問題ない。オレたちは正式に夫婦となった」  息を飲む首筋に、いくつも口づけを落としていく。夢にまで見たやわらかな肌を、余すことなく(あば)きたい。  そしてリーゼロッテのすべてに消えない(しるし)を、永遠に、刻み続けたい――      ◇  (うら)らかな陽気のまどろみの中、リーゼロッテはふと目を覚ました。見上げると書類に目を落とすジークヴァルトがいる。  伏せ気味の青い瞳が、真剣に文字を追っていく。その横顔に見惚れながら、次第にまぶたが重くなった。瞳を閉じてすり寄ると、青の波動が包み込む。  あたたかくて心地よくて、深くまで触れていたくなる。ねだるように引き込むと、青の力がするする身の内に入ってきた。もっともっとと願うままに、すべてがジークヴァルトで満たされていく。  そこまできてリーゼロッテははっと顔を上げた。  目の前には、小鬼たちがはしゃぎまわるサロンが広がっている。壁際にカークが立っていて、自分はジークヴァルトの膝の上だ。食べかけの菓子に飲みかけの紅茶。その横にはなぜか、うず高く積み上げられた書類の山が。 「わたくし眠ってしまってお仕事の邪魔を……!」 「いや、問題ない」  午後のティータイムをたのしんでいたはずだった。眠りこけた自分を起こさないようにと、時間が来ても執務室には戻れなかったのだ。  きっとマテアスがここまで書類を運んだのだろう。サロンが簡易執務室のようになっていて、かけさせた手間を思うと申し訳なくなる。  ジークヴァルトの紅茶はテーブルの(すみ)、遠くまで追いやられ、まだひと口も飲んでいない。あわてて膝から降りようとするも、逆に肩を引き寄せられた。 「気持ちよさそうに寝ていた。よく眠れたか?」 「はい……ヴァルト様のお膝の上は心地よくて……」  もじもじしながら本音を答えた。以前だったら言えないようなことも、今はすべて伝えたくて仕方がない。 「そうか」  肩口辺りまで短くなった髪を()きながら、ジークヴァルトはふっと笑った。公爵家に戻ってから、頻繁にこんなやさしい顔を向けられる。恥ずかしくて胸板に頬ずりすると、いまだジークヴァルトの力を吸い込んでいたことに気がついた。 「わたくしったらヴァルト様のお力を!」  無意識だったとはいえ、我ながら驚きの吸引力だ。あわてて流れを止めようとすると、ジークヴァルト自らが力を流し込んできた。 「別に問題ない」 「ですが……」  力は使いすぎると疲労をもたらす。身の内にあふれる青の力は、すでに相当な量になっていた。 「ならばこれであいこだ」  そう言ってジークヴァルトは緑の力を引き寄せた。今度はリーゼロッテの力がジークヴァルトの中に流れ込んでいく。青と緑が混ざり合う。自分がジークヴァルトになって、ジークヴァルトが自分になるような、そんな感覚に包まれた。 (むしろふたりがひとつになっているような……)  うれしさとあまりの気持ちよさに、きゅっと背中に手を回す。と、サロンがドン! と大きく揺れた。  久々の公爵家の呪いだ。ティーカップがガチャガチャと揺れ、積まれた書類は今にも崩れ落ちそうだ。そんな中きゅるるん小鬼たちが、さらにハイテンションで走り回っている。 「ヴァルト様……!」  一向に落ち着かない騒ぎに、膝の上、きつくしがみつく。強く抱きしめ返されて、サロンがさらに激しく揺れた。 「旦那様、そこまでです!」  雪崩(なだれ)を起こした書類の(たば)を、駆け付けたマテアスが器用にキャッチした。それでも収まらないサロンを前に、マテアスは糸目をつり上げる。 「だ・ん・な・さ・ま!」  そこでようやく静かになった。恐る恐る顔を上げると、大勢の使用人たちが調度品を押さえて守っている。おかげで被害はそれほど大きくなさそうだ。 「まったく、油断も隙も無い……ご自制できないのでしたら、旦那様のお部屋で愛をお語り合いください」 「駄目だ」 「そうおっしゃるのなら、きちんと言動を一致させてくださいよ」 「分かっている」 「分かっておられないから今こうなっているのでしょう?」  ふいと顔をそらしたジークヴァルトを見上げ、リーゼロッテはしゅんとうなだれた。 「ごめんなさい、わたくしがヴァルト様の邪魔をしているから……」 「とんでもございません! リーゼロッテ様は何も悪くはございませんよ」 「だったらマテアスは何を怒っているの? ヴァルト様はきちんとお仕事をなさっていたわ」 「あ、いえ、そうではなく公爵家の呪いが」 「マテアス」  ジークヴァルトに睨みつけられ、マテアスはもの言いたげなまま口をつぐんだ。 「呪いが? 呪いは異形たちが起こしているのよね。ヴァルト様のせいではないでしょう?」 「それはそうなのですが、発動する原因を作っているのは……」 「マテアス」  再び睨みつけられて、マテアスは困ったように眉を下げた。 「いつまでも隠していてもしょうがないでしょうに……。仕方ありませんね。旦那様はリーゼロッテ様を部屋にお連れしたら、執務室に戻ってきてくださいよ」  書類を抱えて出ていくマテアスを見送って、膝から降りようとした。しかし強くホールドしたまま、ジークヴァルトはリーゼロッテを離そうとしない。 「ジークヴァルト様? もう戻らないとですわ」 「ああ、分かっている」  言葉とは裏腹に手に力を()められる。戸惑っているうちに膝裏をすくい上げられ、そのまま抱き上げられた。 「わたくし自分で歩きますわ」 「いや駄目だ。来るときも転んだだろう」 「あれは毛足の長い絨毯(じゅうたん)に足を取られてしまって……」  ひと月以上、狭い部屋に閉じ込められて、随分と筋力が衰えてしまった。東宮で鍛え上げた体が、今では見る影もない。 「だったらなお更だろう。いい。お前はこれから一切歩かなくていい」 「ですが少しは運動しないと本当に歩けなくなりますわ」 「オレが運ぶ。問題ない」 「そんな……!」  呆気にとられたまま廊下を運ばれる。来るときもこうして部屋から運ばれてきた。転んでしまった手前、行きはおとなしく受け入れたが、このままいくと本当に歩かせてもらえなくなりそうだ。  この腕の中にようやく戻ってこられたのだ。こうしてくっついていられるのは、リーゼロッテもものすごくうれしい。だが過保護ぶりに拍車がかかっていて、未来は要介護まっしぐらだ。 「部屋からは出るなよ」  リーゼロッテの部屋の中、アルフレートの隣のソファに降ろされる。名残(なごり)惜しそうに髪をひと(ふさ)さらって、ジークヴァルトは指からこぼしていった。      ◇  部屋に戻ってきてからずっと物憂(ものう)げなリーゼロッテに、エラは遠慮がちに声をかけた。 「お嬢様……公爵様と何かございましたか?」 「ジークヴァルト様がちっとも歩かせてくださらなくて」 「まぁ、そうでございましたか」  公爵家でもリーゼロッテが運ばれるのは、当たり前のようになってきている。戻ってきた時の憔悴(しょうすい)しきったリーゼロッテを目にしたエラとしては、ジークヴァルトの気持ちが痛いほどよく分かった。  やせ細った体。無残に切られた髪。痛々しい手足のあかぎれ。  無事に帰還したとは言い難い姿を見た時、エラは心臓が止まるかと思った。  今でこそ回復してきているが、やはり以前のはつらつとした姿には程遠い。儚げに瞳を伏せるリーゼロッテを前に、エラ自身、叶う事ならこのままどこにも行かないで欲しいと願ってしまう。  リーゼロッテの髪をブラシで梳く。不揃いだった髪は肩口で切りそろえられ、美しく腰まで伸びた髪は随分と短くなってしまった。  一体何があったのか、リーゼロッテは言葉少なく話してくれた。龍に目隠しをされるとかで、うまく説明できないようだった。
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