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「よろしくお願いします」
翠は教室の前に立ち、挨拶する。
黒板には達筆な字で"立華翠"と書いてある。
目の前には、見知らぬ生徒達。
そう、翠はこの街に引越して来た。
▷▶︎▷
放課後、翠はとある教室に訪れていた。
ガラガラと扉を開ける。
中から同級生と見られる生徒が現れた。
「あ!君、転校生?」
「はい」
「文芸部へようこそ!」
「はい、よろしくお願いします」
翠は丁寧にお辞儀する。
翠を迎えたのは、同じクラスの生徒で文芸部の部長だった。
一時間ほど経った頃、翠は一通り文芸部の活動を見て、帰路に着く所だった。
「やっぱり居ない…………か」
そう呟き、ふっと息を吐く。
この言葉の意味は何なのか……。
それは風の噂と翠の人格にあった───。
翠は普通よりも遥かに文の才能に優れていた。
風の噂で聞いた話に、この学校の文芸部に"現代の紫式部"と呼ばれる小説家がいるそうだ、という話を聞いた。
だが、その人物像には様々な噂があり、百合のように凛とした佇まいの美しい女性、小柄な可愛らしい女の子……などなど。
その年齢も実ははっきりしておらず、出自、本名共に不明なことも紫式部と重なっている為、そう呼ばれている。
著者名は"藤崎みやび"。恋愛小説を主に書いており、今季注目の作家だ。
翠もその作家が好きで、是非とも会いたいという思いと、その人物がどのくらい優れているのか直接この目で確かめたい、ということからこの街に引っ越してきた。
しかし、いざ来てみれば、それらしい人物は居ない。
あの中で唯一めぼしいのは、翠を迎えてくれたクラスメイトの部長くらいだ。
翠は、はぁとため息を一つ吐く。
息を軽く吸うと、微かに珈琲の芳ばしい匂いがした。
いつの間にか足はその方向へ向かっており、気がつくと、ある喫茶店の前に立っていた。
看板には『喫茶日向』と書かれている。
「喫茶……ひるが?ひゅうが?」
気になって翠は、その店のドアを開ける。
カランカランと、ドアにかけられた鈴が鳴る。
中からは、先程、翠の興味を引き寄せたあの珈琲の匂いが漂っていた。
「いらっしゃいませ」
出迎えてくれたのは、柔和な笑みを浮かべた、人の良さそうな店主だった。
「ここは初めてですか?」
「……は、はい」
「私は、日向洋と申します」
「あ、ではこの店の名前は」
「日向です」
やっぱりと、翠はぽんと手を叩く。
店主に案内され、カウンター席に座る。
ホットコーヒーを頼むと、すぐにそれは目の前に置かれた。
一口飲むと、苦味よりも、甘酸っぱい味が広がる。
翠は、その未知の味に目を開く。
「……これは?」
「ケニアAAです。甘酸っぱい味が特徴で、冬に飲むと良いとされているんですよ」
「……珈琲って全部苦いものだと思ってました」
翠の言葉に店主はにこりと笑う。
「そんなことはありませんよ?珈琲は、種類によって味が違います。苦味が強いものがあれば、酸味が強いもの、甘味が強いもの、と、その味は様々です」
「そうなのですね…」
翠はもう一度、珈琲を飲む。今度はじっくり味わって。
ほっと一息つくと、翠は先程から話し声が聞こえるテーブル席の方を見る。
そこには、2人の男女が談笑していた。
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