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 鉄道に揺られ、数時間。  それなりに多かった乗客のほとんどは、有名な避暑地の駅でおりてしまった。  彼女はその駅を無視し、さらに数時間鉄道に揺られる。  避暑地を後にしてからさらに数時間。途中ローカル線に数度乗り換え、ようやく、その駅にたどり着く。  静かと言えば聞こえのいい無人駅。  虫の声と、風が木々の葉を揺らす音だけがやけに鮮明に聞こえる。  その駅から数十分ほど歩くと、小さな村がある。  彼女はそこに向かい、歩き出した。  森に囲まれたこの場所は、夏でも涼しい。だが、その涼しさには、どこか薄気味の悪さのようなものがるあると、彼女は考えていた。  懐かしいな。  彼女はそうひとりごちる。  不思議なものだ。このなんともいえない閉塞的で薄気味悪い空気が嫌になり村を出たというのに、久しぶりに戻ってくると、懐かしいと思える。  ひたすら歩き続けると、道が開けた。  彼女が出て行った時となにひとつ変わらない光景が、そこに広がっている。  変わらない。変わらなさすぎる。  まるで、時間が止まってしまったかのようだ。  彼女は再び歩き出す。 「なんだぁ。○○じゃねぇか」  農作業をしていた老人が彼女に声をかけた。 「久しぶりだなぁ。帰ってきたのか?」  色濃く日焼けした顔には生気が満ち溢れていた。 「ううん。お姉ちゃんと連絡が取れなくなっちゃって。気になったから、ちょっと戻ってきただけ」 「へぇ」  背筋に冷たいものが走った。  老人は変わらずに笑みを向けている。けれど、なんといえばいいのか、急に、その笑顔に感情を感じられなくなった。 「あ、えっと、じゃあ、私行くね」  その場から逃げるように、彼女は立ち去る。  なんだったんだろう。自分の勘違いだろうか。  身震いがした。  彼女が暮らしていた家も、出て行ったころと何も変わっていなかった。  呼び鈴を鳴らすと、引き戸が開けられ、一人の男性が顔を出した。 「ああ、○○ちゃん。おかえり。どうしたの突然」  この男性は、姉の夫だ。彼女が村を出てからしばらくして、姉は結婚をした。  別にいいと断ったのだが、一度会わせたいというので、彼女が暮らす東京まで出てきてもらい、食事をしたことが一回だけあった。 「こんにちは、すいません突然。あの、お姉ちゃんっていますか?」 「ああ、ごめん。今、ちょっと旅行に出てるんだ」 「旅行?」 「そう。お義父さんとお義母さんと一緒にね」 「父さんと母さんも? じゃあ、いまこの家には△△さんひとりなんですか?」 「そうだよ」 「……あの、私、なんども電話したり、手紙を書いたりしたんですけど、返事がまったくなくって」 「そうなのかい?」 「はい。その、手紙、届いてますか?」  △△はじっと○○の顔を見つめながら話している。視線を一度も外さない。  居心地が悪かった。 「どうだろう。もしかしたら、妻が隠していたのかもしれないね」 「隠す? どうしてそんなことを?」 「さあ。君が村を見捨てて出て行ったからじゃないかな」  刺すような言葉だった。だが、顔には笑みを浮かべたままなので、本気なのか、冗談のつもりなのか判断しかね、彼女は曖昧な笑みを返すことしかできなかった。 「とりあえず、立ち話もなんだから、あがったらどうだい?」  △△は言う。  正直、このまま引き返したかった。しかし、もう鉄道はやってこない。彼女が乗ってきたのが、最後の便だった。引き返せば、駅で夜を明かすことになる。  彼女は、招かれるまま、家に入った。  こんなに薄暗かっただろうか。彼女はそんなことを考えながら、廊下を歩く。懐かしさより、不気味さが勝っていた。  ぎし。  床が軋む音が、静かな家の中に響く。  ぎし。ぎし。  △△と彼女が歩くたび、軋みが響いた。  ぎしぎし。  軋みの響く感覚が、短くなってきている気がする。  彼女は立ち止まり、振り返る。  すぐ後ろに、にやりと笑う△△が立っていた。  声が漏れそうになるのを抑えて、彼女はまた歩き出す。  居間に着くまでのほんのわずかな間であるはずなのに、廊下がやけに長く感じられた。  居間に着くと、彼女は意識して△△と距離をとって座った。 「あの、本当に姉は私からの手紙を無視していたんでしょうか」  姉とは月に二度連絡をとっていた。家を出た後も、姉とは仲がよかった。連絡がとれなくなる直前まで姉はいつもと変わらない様子だった。無視をする理由が、見つからない。 「少なくとも、僕は把握してなかったよ」 「そうですか……あの、姉たちはどこに旅行へ?」 「どこだっけかな」 「ご存じないんですか?」 「申し訳ない」  なんだか、ずれているように感じられた。  上手く説明できないのだが、根本的に、話ができないというか、彼女の話を最初から聞く気がないように感じられた。 「あ、ごめん。ちょっと出かけなきゃいけないんだ。夜には戻ってくるから、ゆっくりしてて。君の家でもあるんだからね」  そう言うや、△△はそそくさと家を出て行ってしまった。  居心地が悪い。実家であるはずなのに、家そのものに拒絶されているように感じられた。  彼女は立ち上がり、廊下に出て、そのまま縁側に出る。  目を閉じ、大きく息を吐きだす。  姉たちはどこへ行ったのだろう。  ゆっくりと目を開ける。 「あれ?」  彼女の視界に、あるものが入る。 「蝶?」  美しい羽をした蝶が、数匹ひらひらりと飛んでいる。  初めて見る蝶だった。 「綺麗」  そう言葉が漏れてしまうほど、その蝶の羽の色合いは素晴らしいものだった。 「山」  蝶に見惚れていると、不意に声が聞こえた。  いつのまにそこにいたのか、美しい黒髪の少女が、彼女のすぐ横に立っていた。 「あなた誰?」  少女がちらりと彼女の方を見る。  とても美しい顔立ちの少女だった。じっと見つめる瞳を見返すと、吸い込まれてしまいそうだ。 「山に登ってみたら、知りたいことを知ることができるかもしれませんよ」 「知りたいこと?」 「はい。どうしますか?」  少女は問う。知りたいこと。姉たちのことだろうか。 「姉のこと、何か知ってるの?」  少女は答えない。 「……知りたい」  彼女がそう言うと、少女は山の方を指差す。すると、ひらひらと飛んでいた蝶が、山へ向かい飛び始めた。まるで、少女がそうせよと命じたかのように。 「蝶を追っていってください」  少女は山の方を指差したまま言う。 「あの、あなたは……」 「早く追いかけないと、見失ってしまいますよ?」  少女が言うように、蝶はひらひらと進み続けている。  彼女は数度、蝶と少女を交互に見やると、駆け出した。  途中、振り返ると、もう少女はいなかった。  蝶を追いかけ、どれくらい経ったろう。日が落ちかけ、夕暮れの色が山に差していた。  日が暮れると、さらに気温が下がる。彼女は肌寒さを感じつつも、蝶を追いかけ続けた。  あの少女は、一体誰なんだろう。  そんな疑問を、何度も頭の中で繰り返し浮かべていた。  虫の声が、変わる。  ノイズじみた夜の虫の声が、山に響き始める。  そうして歩いていると、一軒の山小屋を見つけた。  蝶たちは、その小屋の周りをひらひらと飛んでいる。  ここ? 彼女は小屋の扉の前に立つ。  扉をノックしてみるが、返事はない。ノブに手をかけてみると、扉は静かに開いた。  そこは、異質な空間だった。  そこらじゅうに、張り紙がしてある。  〈再開発断固反対〉  そんな風に書かれている。  再開発? あ、そうだ。  彼女は、姉との電話を思い出す。  父が先頭に立ち、閉塞的な村をもっとオープンにしようと、活動を始めたと話していた。その時は、そうなんだ程度にしか思わなかったから、忘れていた。  けれど、この村の人たちは、彼女が思っている以上に、村に固執しているようだった。  過激な言葉が書かれたのぼりなどがそこらに置かれている。  嫌な想像が、彼女の中に浮かぶ。  姉たちは、もしかして……。  肌寒さが強くなる。吐き気もしてきた。  彼女は小屋を出て、呼吸を整える。  蝶が彼女の周りをひらひらと舞い、また飛んでいく。  帰り道も案内してくれるということなのか。  彼女はふらつきながら、蝶を追いかけた。    村に戻るころには、すっかり夜だった。  暗闇を歩いていた彼女だったが、それに恐怖は感じなかった。  それよりも、自分の中に湧き出た想像の方がおそろしかった。  家に着くと、蝶はひらひらと夜の闇に紛れ、消えてしまった。  ドアを開け、軋む廊下を歩き、居間に入ると、彼女は軽い悲鳴をあげた。  居間に、みっしりと、村人があふれている。  その目が、一斉に彼女に向けられた。 「どこ行ってたんだい?」  △△が笑顔で問う。 「その、散歩に……」 「そう。言ってくれれば、案内したのに。山の方へ行ったんだろう?」  バレている。彼女は息をのんだ。 「やっぱり、連中のことかぎつけて戻ってきたんだな」  村人の一人が言う。 「村を見捨てて出て行って、その上、連中と一緒になって村を潰そうとするなんて、ひどいやつだ」  村人が言うと、みながそうだそうだと同意する。  異常だ。あまりに、異常だ。 「姉たちを、どうしたんですか?」  彼女が問うと、そうだそうだと叫んでいた村人たちの声がぴたりと止んだ。  また、視線が彼女を射貫く。  村人たちはゆっくりと立ち上がる。  そうして。  彼女を見ながら。  笑った。  その瞬間、彼女は逃げ出した。  足音と怒声が、彼女を追いかけてくる。  逃げなくては。でも、どこに?  考えている暇はない。背後を振り返れば、歪んだ笑みを浮かべる村人たちが、追いかけてきている。  どうしよう。どうしようどうしよう。  混乱していて、ただ逃げ回ることしかできない。  と、視界に色が横切った。  蝶だ。  蝶が、彼女の周りを飛んでいる。  まるで、彼女を導くように。  彼女は蝶に従い、走った。必死で走った。  とにかく、何も考えずに走り続けていると、そこが、あの山小屋の近くだということに気が付いた。  呼吸が苦しい。もう限界だった。  大きく息を吸いこもうとした時、足がもつれ、彼女はその場で転んでしまう。  立ち上がろうとしたが、体力が限界なのか、うまく体が動かなかった。 「ちょうどいい」  追いかけていた村人たちはそう言った。 「運ぶ手間が省けた」  ああ、やはり、姉たちは村人たちに殺されたのだ。そして、きっと山に埋められたのだろう。  自分も、そうなるのだろうか。  村人たちの手が、ゆっくりと彼女に迫る。  ああ、もう駄目だ。  そう思った時だった。  夜の闇が、碧色に輝いた。  光が、渦を巻き、彼女と村人の周りを取り囲む。 「なんだこれは」  △△が困惑の声をもらすのが聞こえた。 「儀式の光ですよ」  彼女の背後から、声がする。日中出会った少女の声だった。  だが、振り返ると、確かに声はあの少女なのだが、姿が違う。  艶やかだった黒髪が、夜の闇にうっすらと輝くかのような銀髪に変わっていた。 「知りたいこと、知れましたか?」  少女が問う。彼女は、ただ頷くことしかできなかった。 「よかった。とも言えないか。助けるの遅れてごめんなさい。儀式の準備で思いのほか時間食っちゃって」  少し言葉が砕ける。この異様な状況と、それを引き起こしている当人が不意に見せた普通の少女性は、なんだかミスマッチに思われた。 「おいで」  少女が言うと、空を舞っていた無数の蝶たちが、地面の中に消えた。それと同時に、土が盛り上がり、そこから「何か」が這いあがってきた。  それが何なのか、把握するのに少し時間を有した。いや、彼女は、それを認識するのを本能的に拒絶したのかもしれない。  それは、「屍」だった。  土から這い出てくるのは、腐り、爛れた、屍だった。  彼女はそれを「認識」した瞬間、嘔吐した。  這い出た屍は、村人たちに襲い掛かった。  悲鳴がこだまする。屍に顔を、腕を、足を掴まれ、村人たちは屍たちが埋まっていた地中に、引きずり込まれていく。  あまりにも異常な光景。悪夢とはこういうものをいうのだろう。 「魂というのは、思いが強すぎると、そこにとどまってしまうものなんです。どこへも行くことができず、ただ動かなくなった肉体という器の中で、永遠に閉じ込められる。そういう魂を救うのが、私たちの仕事なんです」  △△が地中に引きずりこまれていた。恐怖に顔をゆがめ、なすすべなく地中に消える。  救う? これが?  どう見ても地獄絵図だと彼女は思う。 「引きずり込まれた人間は、どうなるの?」 「『向こう』に行って、アンデッドに生まれ変わります」 「生まれ変わるって……」  アンデッドは死者のことではないのか。 「命と魂は別です。命が消えても、魂さえ定着すれば、また生まれることができます。母胎を伴わない誕生。命は絶対唯一ですが、魂の扱いかたさえ知っていれば、永遠を得ることができます。それがネクロマンシーの素晴らしいところなんですよ」  少女は満面の笑みで言う。あまりにも美しい笑顔だった。 「ほら」  少女が指をさす。 「あなたの家族さんたちですよ」  指差された方を見る。 「あれがお姉さん。あれがお母さん。お父さんは少し傷が大きいですね。頭がつぶれちゃってます」  区別がつかなかった。そこに存在するのは、ただの「腐食した肉体」でしかなかった。  それがなんだか、とてもたまらなくて、彼女は涙を流した。 「辛いですか?」  少女の手が、彼女の頬に触れる。 「辛いんだったら、家族の方と一緒に、『向こう』に行きますか? 良いものですよ? 死者の世界も」  彼女は首を横に振る。 「そうですか。残念です」  顔を覆い泣き始めてから、どれくらい時間が経ったろう。周りを見渡すと、もう誰もいなくなっていた。死者も生者もいない。静寂だけがそこにある。 「立てますか?」  少女が手を差し出す。髪の色が黒に戻っていた。  彼女をその手を取った。こうして冷静に見てみると、まだ幼さが残る見た目をしていた。 「駅まで送ります。ここで夜を明かすよりはいいですから」 「あなた、一体何なの」 「ただのネクロマンサーです」  少女はそう答え、優しく彼女の手を引いた。  少女に手を引かれ、駅へ向かった。  村はどうなるのかと訊くと、「どうもなりませんよ」と少女は答える。 「閉ざされた世界なんですよ、あそこは。すべてから閉ざされて、そうしてすべてを拒み続けるうちに歪んでしまった。絶対的な村という概念を守るために、外へ向かおうとするものを村が飲み込んでしまった。死してなお、そうした魂たちは村に縛られ続けていたんです」  それならば、あれは救いだったともいえるのだろうか。  けれど。 「私は、普通に死んで、普通に終わるのがいい」  疲労で頭がまわらないながらも、彼女はそう言った。 「いいと思いますよ」  少女は言う。 「魂はあるがままが一番です。命と共にあって、命と共に消えゆく。本当はそれがいいんですから」  それきり、少女は黙った。  なにか訊こうかと思ったが、言葉が出てこず、結局そのまま、駅にたどり着いた。 「じゃあ、私はここで」 「ありがとう、色々」 「いいえ。こういうのも縁ですからね」  少女は手を振り、そのまま夜明け前の森の中へ消えていった。  彼女はしばらく少女が消えた森を見つめ、駅へ入った。  それからは、ただ呆けていた。  現実だったのか夢だったのか。よくわからない。  日が昇る。眩しい陽光が、彼女を照らし、彼女は目を細めた。  夜明けだ。  目を閉じる。少しでも眠ろうとしたが、目を閉じると、瞼の裏に、少女の顔がちらついた。
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