第一章 碧玉の海

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 「どうかしました?」  「いや」    気がつけばホテルの部屋の中にいた。明るい灯りの下で初対面のはずの若い男と対峙する。有り得ないのだ。二十年経った今、記憶から消し去った相手が当時と同じ顔で、二十年前のまま目の前にいるのだ。同じ年月を重ね同じだけ生きているはずなのに。亡霊なのだろうか。それとも単なる他人のそら似か。  その若者のことを知りたいと思いながら、何も聞けないまま時間は少しずつ進んでいく。  「先にシャワー使わせてもらいますね」  当たり前のように浴室に向かうその後ろ姿を見送りながら、耐えられなくなり声が漏れてこぼれた。  「(あお)なのか……」  その男の耳にその声が届いたのか、肩がぴくりと動いた。けれども振り返ることもなくその男は浴室へと消えて行った。  忘れられるはずがない、物心ついた時から一緒だった。高校に進学するその日までひと時たりとも離れたことは無かった。自分の中に育ってしまった感情が露呈してしまったあの日まで、御園の世界には碧人(あおと)しかいなかった。御園の小さな世界は二人で完結していたのだ。  バスタオルを腰に一枚巻いただけの姿で出てきた青年はその碧人に生き写しだ。一晩限りの行きずりの相手、誰でもいいと思っていた。しかし、その顔を見れば見るほど割り切れない。これだけの年月を経てもなお。過去に封印した碧人の存在の大きさに押しつぶされそうだった。  「少し話をさせてくれないか」  「ピロートークですか?嫌いじゃないけれど、後にしてくれませんか?」  その青年の鎖骨から、重力に引かれた水滴が肌を転び落ちる。真っ直ぐに顔を見ることが出来ず、その水滴を視線で追う。転がり落ちた水の珠は、腰に巻かれたタオルに届き、その繊維の中に潜り込むように消えて行った。  「なぜ……どうして、あんなところにいたんだ」  「会ったことありませんよね?初めましてですよ」  「何故、あんな場所で」  「あんな場所って、そこで相手を探している人に何か言われる筋合いはありません。ヤらないのなら帰ります」  小さく「他を探さなきゃだめだ間に合わない」と碧と同じ顔の若い男がつぶやいた。他を探す?どういう意味だ。  亡霊の正体を見極めようと、過去の記憶を揺り起こす。その時、碧人と同じ顔をした青年は全く違う表情をした。強い眼差しは碧人とは違う、いつも後を付いて来る可愛い弟のような存在の碧人とは。  最後に会ったのは碧人が十八になる少し前のことだった。二十年経ち封印した思い出の欠片にこんな形で出会うとは思ってもいなかった。  両親が島の小さな家を手放して都内のマンションに移り住んだ時から、もう島に戻る理由もなくなり、過去の遺産として全てを葬った。島とも碧人とも接点は切れたはずだった、二度と会うこともない。埋葬したはずの思い出だ。    頭が付いていかない。服を掴んで身に着けようとしていた碧人に似た男の肩を掴むとベッドに引き摺り倒し、押さえつけた。今このまま帰してはいけないと、考えるより先に身体が動いていた。  「いきなり?まあ、いいですけど。じゃあさ、これ飲んで。気持ちよくなる薬、オニイサンこういうの嫌いじゃないでしょ?」  ふふと笑う瞬間に右の口の端だけが上がる。この笑い方は碧人が作り笑いをするときのものそのものなのだ。  「おまえ、一体誰だ?」  「何?興ざめだな……」  「答えろ!」  「何を?知る必要はないですよね。お互い二度と会わないような相手でしょう。放してください、帰ります!」  「お前、碧人の何だ?」  碧人の名前を口にしたとき、その青年は目を大きく見開き、慌てて視線をそらした。
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