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マンションの部屋に一歩足を入れた時、いつもと違う空気がそこにあった。
「おかえりなさい、朝早くからお出かけだったのですか?」
奥から声がした。入り口まで急いで迎えに来た碧稀は御園を見て一瞬顔をしかめた。しわくちゃのシャツ少し伸びた髭、そして普段はしない誰かのコロンの香り。
「どうした、今日は早いんだな」
動揺を隠そうと質問には答えず質問で返した。何を焦っているのか、別に責められる関係ではないはずなのだ。
「バイトのシフトが急に変わって……それで朝から……」
碧稀は答えを途中で止めて大きなため息をついた。
「御園さん、昨日の夜は帰られなかったのですね」
御園は何も答えず無言でバスルームへと向かった。言い訳をする必要は無い。それなのに何故か罪悪感がある。バスルームのドアに手をかけたが、そのノブを回すことなく振り返る。
「昨日は……」
「帰ります」
話し始めた御園の言葉を遮って碧稀がカバンを手にした。「バイトの時間ですから」とそれだけを残して一度も御園の方に振り返ることなく静かに出て行った。部屋の真ん中には残されていった掃除機がぽつんと置かれたまま。
「待て!」
玄関まで追いかけると靴を履きかけていた碧稀を止めた。
「僕には文句を言う権利も何もありません。ただ、今は……なぜか悔しいだけです」
特別な相手ではない、行きずりの一晩限りの相手だったと伝えることは出来なかった。あまりにも真っ直ぐな瞳に気圧されて何も言えなかった。
「今度は必ず連絡してから来ます」
静かに閉まるドアに碧稀の心も静かに閉じたような気がしていた。
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