第十章 木藍

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 その週の金曜日に碧稀からメールが来た。日曜日の午後に伺いますとだけ書かれていた。もう来ないかもしれないと思っていただけに少し驚いたが、それと同時に嬉しいと思った。  この一週間は落ち着かない一週間だった。碧稀からの来るか来ないか分からないメールを待ちながら、変に関係を持ってしまった相手の存在も気がかりだった。清掃業者が同じフロアに入る度に身構えた。けれども担当する場所が違うのか、あれから一度も会うこともなかった。  金曜日の夜は誰もが不思議と浮かれている。エレベーターで桜井と一緒になる。こんな早い時間に珍しいと思う。  「お疲れ様です。今日はもうお帰りですか?」  「珍しいな、ひとりなのか?」  「いつも一緒と言う訳ではありませんよ。今日は先に帰って食事の支度でもしておこうかと」  一緒にいることが日常になった2人が羨ましい。1人が気楽だと思っていたのは20代までだった。時折、身体を重ねる相手がいてそして誰にも縛られない時間があった。それだけで必要十分だった。  駅に着くまでの間、桜井を揶揄ってやろうとちょっとした悪戯心が起きた。  「なあ、入社一年目の羽山の写真見たいか?入社式の写真が家にあるが見てみたいだろう?」  「別に。」  「その言い方。気になるんだろう、送ってやるよ。そうだな代わりに今度日本酒の美味い店でも連れて行ってくれれば」  「いえ、羽山さんに頼んで見せてもらいますから結構です」  「見せてくれるかなぁ」  「どういう意味ですか」  あの頃の羽山は本当に儚げで色っぽかったな。あれは当時の恋人のお陰じゃないのかと持論を展開すると。桜井の顔が赤くなった。  「やめて下さい」  強目の口調で返されて少しやり過ぎたと知る。悪かったと冗談だよと詫びると小さい声で「やっぱり写真送って下さい」と桜井が言う。可愛いところもあるなとデカい男の頭を撫でてやった。  「御園さん、これからお帰りですか?待ってました」  地下鉄の降り口のところで声をかけられた。まさかここで会うとは思っていなかった。会社ではなるべく会わないようにと気を使っていたが、今は完全に気が抜けていた。桜井が訝しげな顔をする。けれどもそこは大人だ、何も言わずにお先に失礼しますと地下鉄の駅に飲み込まれて行った。  「こういうの止めてくれ。もう会わないとこの前伝えたと思ったのだが」  「でも僕は了承してませんよね。こっちから切る事はあっても、相手から一回で切られること今までなかったから新鮮で」  「つまり相手には困っていないということだろう。他を当たってくれ」  「どうしようかな、とりあえず今日は飲みに行きませんか?」  こちらの意図が全く通じない。同じ言葉を話しているはずなのに。 今日は用事があると振り切って駅に向かう、その後を一定の間隔をあけて鈴木は着いて来る。ここで声をかけたら駄目だとまるで見えないかのように先を急ぐ。マンションに着いた時、後ろを確認したがもう誰もいないようだった。
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