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第三章 深碧の淵
「おまえまさか……碧稀か」
その問いに組み敷かれていた若い男は一瞬目を丸くして慌てて顔を逸らした。その反応に確信する、間違いない。
「碧人はどうしている?」
「.......」
押さえつけていた身体を自由にしてやるとその若い男は、慌ててシャツに袖を通した。呼吸を肩でしている。息づかいが聞こえてくる、ボタンを留める指先が震えていて上手くシャツのボタンをかけることさえ出来ない。
「帰る」
これ以上、この男にかかわってはいけない。今、ここで別れて二度と会わない。それが最良の策なのだ。会わなかったことにするべきなのだ、何もなかったことにするべきなのだ。実際に何もなかった。御園は目の前の青年が出て行くのを静かに見送るべきだと頭では分かっていた。けれど心が頭を支配する。どうしてもこのままにすることができない。慌てて衣類をたぐり寄せていた男の腕をぐっと掴んだ。その時、手にしていた錠剤がぽとりと床に落ちた。
御園が落としたその薬を拾い上げると、横から手が伸びてきて勢いよくその小さな薬は奪い取られた。
「返して、要らないでしょう」
「碧人は元気か?」
「......知らない」
「荻野碧人だ、自分の親父の名前を忘れたのか」
「知らない!」
「なあ、今何歳だ」
「23」
「嘘をつくな、まだ十代のはずだ」
「じゅうなな......」
「はぁ、やっぱりか。さっきの薬は何だ。一体何をやっているんだ?」
「一体、あんた誰なんだよ」
「目上の人に向かっての口のきき方じゃないな」
その青年の額から丸くなった汗がつつっと流れ落ちる。暑いからじゃない、何かに怯えている。
「言うの?」
「なにを?」
「……言わないで、く、ださい」
「だから、誰に何を言うって?息子が昏睡強盗を東京でしてると碧人に伝えると思っているのか」
「やっぱり言うんだ。違う、ちがうから……ぐっ……って、ひっ」
泣き出したその顔に残る幼さに、小さなため息が出た。
「話を聞かせろ、それに俺が碧人に何も言えるわけないだろう。ああ、そういえば息子に会ったよ。一晩誘ったんだけれどな、とでも言うのか?」
碧稀のその瞳は探るように揺れている、御園の様子をうかがっているようだった。
「一回だけ、それで終わりだって言われたから」
「朝まで時間はある、きちんと話せ」
「どうしよう、こ、怖いんです」
「落ち着いて。どっからでもいい、なんでもいい。聞いてやるよ」
「もう帰れなくなるって、誰にも知られたくないんです」
「どこへ帰れないって」
「島に……帰りたいけど、帰れない」
「随分と複雑だな」
あまりに要点を得ない答えにくっと笑うと、少しだけ碧稀の表情が柔らかくなったようだった。
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