第三章 深碧の淵

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 軋むベッドの音に目が覚めた。若い頃ならそんな小さな音では目を覚ますことは無かったが、年齢と共に眠りが浅くなってしまったようだ。音を立てないように気を付けながら身支度をしている碧稀の気配が伝わってくる。  「帰るのか?」  「えっ、あの」  「朝飯は?どうせ帰ったってコンビニの弁当が関の山だろう」  「......」  「別に無理に付き合ってもらわなくてもいいが」  高校生の腹事情や懐事情はよく知っている。自分も通った道だ。  「五分待ってろ、シャワー浴びてくる」  身支度を整えながら、碧稀はもう帰ってしまったかもしれないと考えた。それならばそれでいいとシャワーを浴び、髪を整え昨日着ていた服にまた袖を通した。朝になれば帰るつもりだった。着替えなど持ち合わせていない、少し皺になったシャツからは昨日の店の名残か普段吸わない煙草の匂いが微かにした。  「ん?大人しく待っていたのか?」  ベッドの端には、尻尾を垂れて待てをさせられた仔犬のような若い男がいた。  「え?」  「いや、逃げ出すかと思ったよ」  そう言われてしまったと言うような顔をした若者は、やはり親に叱られた子どものようだった。  「ホテルの朝飯でいいか?好きなだけ食べられるよ」  後を付いて来るその足音が碧人より間隔がある、一歩の大きさが違うのだ。そんな些細なことを思い出す自分自身が情けなかった。レストランの入り口で立ち止まった瞬間に周りを落ち着かない様子で見まわしながら歩いていた碧稀が御園の背中に軽くぶつかりよろけた。  「すみませんっ!」  「いや、落ち着いて歩け。でかいのが転んだらみっともない」  ベッドの端で小さくなっていた碧稀はまるで子どものようだったが、こうやって見ると若い背の高い青年だ。  「親父より背が高いんだな」  「あ、はい」  嬉しそうに笑うと、碧稀はちらりと並んだ料理の方へと視線を向けた。  「腹は減っているだろうが、席に案内されるまで大人しく待ってろ」  皿に乗り切れないほどの量のソーセージやベーコン、フライドポテト、見ているだけで腹一杯になる。  「いただき……あの、すみません。お名前を教えていただいてもいいですか?」  「ああ、そうか。そうだな、御園凌馬(みそのりょうま)だよ。荻野碧稀(おぎのあおき)君」  「はい。いただきます、御園さん」  きちんと手を合わせると勢いよく皿に盛られた料理に噛り付いた。よほど空腹だったのかあっと言うまに皿に乗った料理は碧稀の胃袋の中へと吸い込まれて行った。  「見ていて気持ち良いくらいだな」  「御園さんは、コーヒーしか飲まないのですか?朝食代を払ったのにもったいないですよ」  「いや、その分も目の前の青年が食べてくれているよ」  朝から次々と料理を平らげていく若者を眺めながら、穏やかな気持ちになっていた。昨日までのささくれ立った心に多少乱暴なやり方ではあるが、大きな絆創膏を貼られ安心したような気持になっていた。
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