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◇ ◇ ◇
「じゃあプレゼンは成功だったんだ」
「うん。プランが通っただけだから、むしろここからが本番なんだけどね。でも一山越えたかな」
「おめでとう」
スペインバルのカウンターで何回目かの乾杯をする。前みたく緑川さんのサポート付きのプレゼンだったら、当然成功していただろうけど、これほど泡の白ワインが美味しく感じなかっただろう。
「あの、さ」
「はい?」
「君の仕事の区切りがついたからってわけでもないんだけど、付き合おっか」
「……あ、は、はい」
はーと深いため息をついて彼がこっちを見た。「よかったぁー」と言った顔はこれまで彼が見せたどんな顔よりくしゃっとしていて、この人はこんな顔をするんだと新鮮だった。きっとこれから、皮算用の及ばないことが起こるんだろうけれど、それもいい。ホッとしたらトイレに行きたくなった、と彼が席を立った背中を、こそばゆい気持ちで見送った。
何気なく彼が座っていたスツールを見下ろすと、カウンターの物置棚から覗くビジネスバッグにきらりと光るものが付いていた。
「……これ、もしかして」
この毛には見覚えがあった。狸がうちに来てからというもの、毎日の掃除が欠かせなくなったから。コロコロにびっしりつく、毛先が少し白い、うねりのある毛。
うちの子の毛が落ちたのかもしれない。自分の洋服にもついていないか確認しながら、軽く彼の鞄をたたいてその毛を払い落とした。
◇ ◇ ◇
翌朝、私はいつもより早く出社した。ボスの席の近くにある紙資料を取りに無人のブース脇を歩く。
緑川さんの椅子に、ふわふわとしたものが揺れていた。
「……えっ」
近付いて良く見ると、メッシュ地の背もたれには狸の毛が数本絡み付いていた。
私は彼にも緑川さんにも、毛の出所について聞くことができなかった。
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