
「──何故だアデライデ? なぜそのような契約を? 俺にはもうおまえが与えてくれた名があるではないか──……」
アデライデははらはらと涙をこぼし、フロイントの赤い目を見つめて言った。
「……ごめんなさい……わたしが名前をつけたばかりに、あなたが罪に問われると言われたのです……。それに正式な名を手に入れれば、あなたには居場所ができ、ほんとうの幸福を得られると思ったの……」
アデライデの言葉にフロイントは息を呑んだ。
「……俺のために……? おまえは俺のために、バルトロークと契約を交わしたのか……?」
アデライデは涙のこぼれ落ちる青い瞳を閉じて、切ない息を漏らしながら頷いた。
フロイントは目を見開いたまま、茫然とアデライデを見つめた。衝撃が嵐のように駆け巡り、全身を打ち震えさせていた。アデライデがそれほどまでに自分を想ってくれていたことを知り、時ならぬ歓喜と愛が炎のように燃え上がり、我を忘れてしまいそうだった。
しかしそのフロイントの精神は、アデライデへの強い想いと共に沸き起こったバルトロークへの激しい怒りによって、
弥が上にも現況に押し留められた。魔族にとって名は単に呼び名と言うこと以上の重要な意味を持つものであるゆえに、人間に名前を授けられるということが恥ずべきことと見なされているのは確かだったが、しかしそのようなことが罪に問われるなどと言う法が存在しないことぐらい、魔界に距離を置いて生きて来ざるを得なかったフロイントでも知っていることだった。
バルトロークは赤い炎のたぎった目を向けるフロイントに黒い唇の端を耳近くまで吊り上げ、醜い嗤いに顔を歪めた。
「バルトローク、貴様アデライデを騙して署名をさせたな」
バルトロークは
傲然と天を仰いで哄笑した。
「当然ではないか。己の欲するものを得るためには手段を択ばぬ──それが魔族の魔族たる証であると共に
誉むべき
性。貴様のような出来損ないには持ちあわせ得ぬ
精華であろうがな。だから面汚しだと言っているのだ、劣等の逸脱種め」
汚物に唾棄するかの如くフロイントを
睨めて吐き捨てたバルトロークは、悪辣に歪んだ顔をアデライデに近づけた。
「しかしそなたはなんと心やさしき健気な娘であることか。己の家畜も同然の輩のために、わが身を魔物に売り渡すなどとは並みの人間風情にはできぬこと。いったいそなたはどれほど美味であろうな──」
バルトロークは顔を背けたアデライデの顎に手をかけ、強引に振り向かせようとした。フロイントの激怒は頂点に達し、全身からは紅蓮の炎のように怒気が燃え上がった。
「貴様、バルトローク──!」
フロイントの怒りに震える翼が大きく広がった瞬間、バルトロークはカッと
眦を裂いていきなりアデライデを突き飛ばした。アデライデは床の上に勢いよく滑って倒れ込み、その衝撃で気を失った。
「アデライデ──!」
フロイントは咄嗟に床を蹴って飛んだ。転瞬、バルトロークの全身から激烈な雷光が迸った。激甚な光が明滅するたびに、居合わせた魔物どもの体からは炎が上がった。際どいところでなんとかバルトロークの
雷から逃れることのできた魔物たちは、巻き添えになることを恐れ、雷の暴れ狂う大広間から我先にと逃げ出した。生者の気配の消えた大広間にバルトロークの高笑いが響き、ひときわ激烈な雷光が閃いた。雷光はばりばりと音を立てて床に落ち、大広間の冷たい床に亀裂を走らせた。
バルトロークは漸く雷を収めると、
濛々と煙の立ち昇る大広間を目に映してにやりと嗤った。
が、煙幕が薄らいでいくに従い、バルトロークの目には黒い影の輪郭が映し出されていった。バルトロークは俄かに
気色ばみ、眉を吊り上げた。程なく煙の向こうからは、屈めた全身を、所々が焦げて焼け落ちた黒い翼の盾で覆ったフロイントの姿が現れた。
「なにぃ?」
バルトロークの顔は激しい憤怒のために醜く歪んだ。
「まだ生きているだとぉ?」
フロイントはゆっくりと立ち上がり、翼を左右に開いた。バルトロークはその開かれた翼の内側に、気を失ったままフロイントの逞しい腕によって抱きかかられているアデライデの姿を認めると、突然けたたましい声を上げて嗤い出した。
「こいつはいい……! 傑作ではないか……! 美しき聖女を守る
騎士を気取る輩が貴様のような醜い劣等魔族とはな……!」
バルトロークの狂気じみた嗤い声が響く中、フロイントはバルトロークに背中を向け、ぐったりと目を閉じるアデライデを両腕に抱いたまま、太い柱の陰まで歩いて行くと、冷たく凍えるようなアデライデの体を静かに注意深く床の上に横たわらせた。血の気を失ったアデライデの青白い頬に、涙で濡れた長い睫毛の影が落ちているのを見て、フロイントの胸は強く痛んだ。睫毛の先にたまった涙の雫を折り曲げた指の関節でそっと拭い取りながら、
「すぐに済ませるからもう少しだけ待っていてくれ。共に館に帰ろう……」
囁いて立ち上がり、緑の髪を振り乱して嗤い続けるバルトロークにゆっくりと近づいて行った。

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