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1 殺人鬼はカフェにいる
うららかな光差し込むカフェの店内には、ジャズ風のピアノが流れていた。
曲名はわからない。でもどことなく聞き覚えのあるメロディだから、何か有名な曲のアレンジなのかもしれない。
二十歳ぐらいの青年、首野夜市はぼんやりとそんなことを思いながら、シンクの中にあったコップを持ち上げてふきんで拭き始める。目元にかけた大きな丸眼鏡も相まって、どことなく地味な印象に見える人物だ。
「いやあ、実に快適な時間だねえ」
ちょうど目の前のカウンター席から、ほのぼのとした声が聞こえてくる。ちらりとそちらに目をやると、そこには夜市よりほんの少しだけ年長な男性が座っていた。
「落ち着いた空間、暑すぎず寒すぎない陽気、客は私一人。実に何を話しても許されそうだ」
残り少なくなったコーヒーを揺らしながら、やけに大仰な言い方で長身のその男性、天海は言う。
「そう思わないかい、夜市くん」
「それはうちの店が流行ってないって言いたいんですか、天海さん?」
天海は茶色のくせっ毛をいじりながら、実に気障ったらしい顔をした。
「ふふん、隠れ家的だと言ったのさ」
「言い方を変えただけじゃないですか」
腹が立つ顔だ。夜市は彼の相手をするのをやめて、キュッキュッと拭いていたグラスを、カウンターにコトンと置いた。
「ねえ、夜市くん。せっかく二人きりだし、ここだけの話をしようか」
無視をした。アルバイトの自分を残して店主が外出している今、接客をできるのは自分だけだ。だけど、なんだかなれなれしいこの常連の男性を、なぜだか夜市は好きになれずにいた。
「夜市くん、夜市くん。……『スズメバチ』というものに聞き覚えはあるかい?」
新しいグラスを持ち上げようとした指がぴくりと動く。
「スズメバチですか?」
グラスを蛇口から流れる水にさらし、少し濡れたふきんで水滴を落としていく。
「もしかしてうちの軒下に巣でもできていましたか? 駆除依頼ってどこにだせばいいんでしたっけ……」
「違う、違うよ。そっちじゃない」
首をゆるゆると振った後、天海はこちらに含みのある笑みを向けた。
「殺人鬼だよ。若い女性ばかりを狙う連続殺人鬼『スズメバチ』」
ちょっとだけ思考を巡らせた後、夜市は二個目のコップをカウンターに置いた。
「ああ、そんな噂もありましたね」
興味がなさそうな顔で夜市はフォークを洗い始める。
「どんな噂か君は知っているかね?」
「死体の首に穴を開ける殺人鬼でしょう? 残酷なこともありますよね」
スズメバチ。首筋に穴があけられた状態で発見された死体を、ここ数年でいくつも作り出した殺人鬼。
「それがどうかしたんですか」
どうでもよさそうな声色で夜市は返事をする。天海はぴんっと背筋を伸ばして、まっすぐに夜市を見据えた。
「『スズメバチ』は君だよね。首野夜市」
「…………は?」
フォークを取り落とし、その切っ先がシンクにぶつかる。がらんがらんと派手な音を立てて、食器たちはぶつかった。
「なぁに、簡単な論理だよ」
天海は得意げに話し始める。聞かれてもいないのに。
「君は『死体の首に穴を開ける』と言ったね? 世間一般に流れている噂は『首に穴をあけて殺す』という内容だよ。どうして君は前者だと言い切ることができたのかな?」
指先が揺れる。
夜市は目を伏せたまま、唇が震えそうになるのを必死でこらえて一息で返した。
「馬鹿なことを言っていないで、さっさとコーヒーを飲んで帰ってください。ケーキ一つとコーヒー一杯でここまで粘られるとさすがに迷惑ですよ」
あくまで気にしていないという体で、夜市はシンクの中のフォークを持ち上げる。ちょっとした軽食を食べるためのフォークで、鋭い先端は三センチほどある。
天海は懐から一枚の紙を取り出した。
「証拠の画像だ。さすがに入手するのには苦労したよ。日々、ストーカーをした甲斐があったというものさ」
そこに写っていたのは、レインコートを着込んだ人影が誰かにのしかかっている場面だった。画質は相当悪く、監視カメラから切り取ってきたもののようだ。だけど、振り下ろそうとしているアイスピックと、加害者の顔だけは、はっきりと夜市のものであると判別できてしまった。
夜市はのどを震わせながら、写真を凝視した。
「……僕を警察に突き出すつもりですか」
手にしたフォークをくるりと回して、突き刺せるようにしっかりとつかむ。
殺人鬼を始めて二年半。ここまで手にかけた人数は五人。最近は気が乗らなくて事件を起こしていないが、この位置なら確実に昏倒させることはできるだろう。
だがこんな白昼堂々で隠ぺいできるのか? ほかの客が来ない保証はどこにある?
ぐるぐるとめぐる思考のまま彼の目をにらみつけていると、天海はころっと笑顔になった。
「まさか! そんな無粋なことをするものか!」
大げさなジェスチャーで手のひらを夜市に向けてくる。武装をしていないと表明しているのだろう。だが油断をするべきじゃない。夜市はぎりっとフォークの柄に力をこめて、彼をにらみつけた。
「怖いね。僕を殺すつもりかい? ちなみにデータはもちろん別の場所にバックアップしてあるよ」
あっけらかんと言う天海を見据えたまま、夜市は問う。
「何が望みですか」
跳ね回る心臓がうるさい。大丈夫。大丈夫だ。相手は丸腰で一人だ。厨房側に引きずり込んでしまえば――
「僕は君を見極めてみたいのだよ」
「……見極める?」
予想外の言葉に、夜市はぴたりと動きを止める。天海は余裕たっぷりに、にやりと笑った。
「ある事件の解明を手伝ってほしい。探偵である僕の助手としてね」
怪訝な目のまま、自分のことを探偵だと言った天海を見る。彼は口に笑みを浮かべながら、片眉を跳ね上げた。
「つい先日この町で起きた怪事件――『ミルフィーユ殺人事件』だ」
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