最終話『ランドマーク』2

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最終話『ランドマーク』2

 ここは……まるであのロンドンの衣装部屋のようだ。  あの空間を忠実に再現している……! 「瑠衣……本当は……君とは、ここからやり直したかった」 「アーサー」 「もう誰にも邪魔されない場所だ。ここは」  アーサーが感極まった表情で、僕の前に立った。 「あの……」 「タキシードを脱がせてくれ、あの日のように」  ロンドンのアーサーの部屋の衣裳部屋は少々手狭だった。だが、まだ余所余所しさが残る僕たちの距離が縮まるのには、最適な空間だったのを思い出した。  ここに君を誘い、誘われた。  僕は、そっと君のタイに手を伸ばした。 「分かった。……では、失礼するよ」  意識し過ぎて変になりそうだ、僕――。  吐息の届く距離で見つめあうと、君はふっと微笑んで、僕の耳朶に触れた。 「また髪が、乱れているよ」 「ん……」 「あ、あの……」  君が、指の腹で僕の耳朶を擦るから……解く手が震えてしまう。あの日のように火傷しそうな程、耳が熱くなってくる。 僕は君のタイをなんとか解き、それからシャツを開襟した。 「瑠衣、ここまで来るのに本当に長い道のりだったな。もう誰にも邪魔されない。ここは安全だ。あの時は気づいてやれず、俺の軽率な行為で……君を窮地に追い込んで悪かった」  君の目は、潤んでいた。そうか……君はあのロンドンの屋敷で,僕を救えなかったことを今までずっと悔いていたのか。 「馬鹿だね、君が泣くなんて……。僕は悔いていないよ。衣装部屋で育んだあの日を忘れたことはない。離れていた十三年間、冬郷家の衣装部屋で、いつも君を想っていた。僕にとって衣装部屋は、君そのものだった。あそこで君からの手紙を抱きしめ、君を想っていた、いつも!」 「瑠衣、君は優しすぎる……こんな俺をいつもいつも……許して、慕って、愛して……支えてくれて……」  君の瞳から、とうとう涙が零れ落ちた。次から次へ頬を伝う。 「あぁ……アーサー、君がこんなに泣くなんて……あの手術を終えた後を思い出すよ」 「瑠衣が愛おしすぎて、止まらないんだ」  君の白いシャツのボタンを外すのを途中でやめ、布地の上から心臓にそっと触れてみた。   88df8eef-4816-4779-9d3f-eb16d5de7c27                                                  (挿絵・おもち様)  トクントクン……規則正しい音が伝わってくる。安堵する。  これは命の音だ。僕を愛してくれる、僕の君が……生きている音色だ。 「アーサー、聞いて。僕たちはもう、綱渡りのような恋ではない。互いが互いのランドマークとなる恋をしているんだ。だからもう置いていこう、苦しかった過去は、もう不要だ」 「ありがとう。瑠衣、ここまでの道のりは……その本に記した。だが、俺たちの物語はまだまだ続く……あとは二人の胸に刻んでいこう」    涙に濡れる君を、僕は包み込むように抱きしめた。  交わすのは、ランドマークの誓い。  僕は少し背伸びして、君の震える唇に優しい温もりを届けた。  それから、二人で声を揃えた。 『君は僕のランドマーク』 『君は俺のランドマーク』  物語よ続け――  永遠に、時空を超えて。  僕たちの薬指には、真新しい指輪が輝いている。  一粒のダイヤモンドが、キラキラと光を反射する。 「この星が目印だ」  互いの指に、そっと接吻し合った。    窓辺からは君の瞳のように青い海が見える。更に遙か遠くには、大型客船も見えた。 「瑠衣、帰りは横浜港から英国までゆっくりクルーズだ。ここが俺たちの人生の母港となる」 「だから、ここに家を?」 「あぁ」    僕に生きている意味を与えてくれたアーサーが、僕に故郷を贈ってくれた。  日本で生まれ育った僕に流れるルーツを、大切にしてくれるのが嬉しかった。 「そろそろ帰ろう。僕たちのHome ground《ホームグランド》・英国へ」 「そうしよう」    いつもそこに君がいてくれるから……  僕も、君の傍にいる。 二人は、互いが互いの道標(ランドマーク)。                         『ランドマーク』End                 
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