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冬郷家の夜桜 5
「柊一さん、お酒のおかわりとおつまみを持ってきましたよ」
ところが中庭の桜の樹の下は、もぬけの殻だった。
「どこへ行ってしまったのか」
「どうした桂人」
「誰もいないんだ。桜と言えば、ここなのに、おかしいな」
テツさんが長身の身体でぐるりと周囲も見渡して、笑った。
「どうやら夜桜は、既に持ち帰ったようだぞ」
「ははん、なるほど」
柊一さんも瑠衣さんも、今頃、彼の夢の中か。
「桂人、せっかくだから俺たちも夜桜見物をしないか」
「いいね。どうせなら樹の上から桜を観たい」
「まったく……まぁ、そう言うと思ったが」
「行こう! テツさん」
堅苦しい革靴は脱ぎ捨て、おれはいつもの樹の幹に足をかけた。
テツさんは庭師だから、木登りはおれに負けないほど上手だ。
二人でするすると登り、太い枝に腰掛ければ、眼下に桜の樹が見えた。
「月光に照らされて、幻想的だな」
「……あぁ、とても……春子にも見せてやりたいな」
「そうだな。また会いに行ってくるといい。雪也くんの近況を知らせがてら」
「なんだかおれ、伝書鳩のようだな。兄としては少し複雑だ」
「俺たちのように幸せになって欲しいと思っているくせに」
「まぁな……あっ」
テツさんに突如顎を掬われ、唇を重ねられる。
「ん? テツさんは酒の味見……しなかったのか」
「まだしていない。素面だ」
「……つまらないな。おれも便乗して酔わせてもらおうと思ったのに」
「桂人はその言葉、後悔するなよ」
「後悔なんてしない。今宵はもうお役御免のようだから、おれは自由だ」
「桂人……月光があたってとても綺麗だな」
瑠衣さんや柊一さんのように、おれはテツさん愛されている。
そしておれもテツさんを愛している。
「なぁ、このまま外でする?」
「けっ、桂人は大胆過ぎる」
純朴なテツさんは、ここからは真っ赤でしどろもどろになっていく。
そんなテツさんが、おれは好きだ。
****
「瑠衣……瑠衣……瑠衣」
「あ、ちょっと待って」
部屋に入るなり、背後からガバッと抱きしめられた。
そして、ベッドに押し倒された。
いつになく性急で、いつになく熱いアーサーの身体。
もしかして……
「アーサー、君、かなり酔ってる?」
「……かもしれない」
「今日は日本酒だったからね」
「口当たりがまろやかで飲み過ぎた。いつも思うが、冬郷家の酒は美味すぎるぞ」
「そうだね、僕もほろ酔いだよ」
急く気持ちを落ち着かせるように話し掛けていると、アーサーの動きがどんどん緩慢になっていく。
「アーサー、もしかして眠いの?」
「……眠くなんて……ない」
「そうかな? 目が閉じそうだよ」
「瑠衣を見ていたい」
「時差ボケもあるし、日中は慣れない着物も着たから、流石に疲れが出る頃だね」
「嫌だ。瑠衣を抱いてから眠る」
「ふふっ」
なんだかいつものアーサーではないみたい。
可愛い弟のように思えて、背中を優しく撫でてあげた。
「瑠衣~ 今、心の中で『いい子、いい子』って言わなかったか」
「言ってないよ」
『よしよし』とは言ったけどね。
「どうも俺は最近、小さな獣にでもなった気分がして……」
「猫ちゃん……とか?」
「いや、俺は百獣の王だ」
「うんうん、あのキーホルダーは君みたいで、今でも取ってあるよ」
「瑠衣は赤い目のう……さぎ……」
結局、僕を押し倒したまま、寝落ちてしまったアーサー。
少し身体をずらして、そっと抱きしめた。
アーサー、いつも僕の帰省に付き合ってくれてありがとう。
身体を繋げなくても、こんな風に二人で酔っ払って眠るのもいいね。
君が傍にいるだけで、僕は幸せなんだよ。
アッシュブロンドの髪に絡まる桜の花びらを見つけ、僕は微笑んだ。
ようこそ日本へ。
ようこそ僕の故郷へ。
今日も愛している……僕の君。
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