冬郷家の春 8

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冬郷家の春 8

 隅田川を厩橋方面に向かって、そぞろ歩いた。  俺の横を歩く柊一の着物姿は、気高く美しかった。  真っ直ぐ顔を上げ、凜とした表情を浮かべている。 「海里さん、帯のお陰でしょうか。着物は気持ちが引き締まりますね。瑠衣の着付けは心が整います」 「昨夜の桂人の夜の着付けも、君の心と身体を解放して良かったよ。昼のしゃんと着こなす姿もいいな」 「海里さんこそ……今日はますます端正で……本当に素敵過ぎます」  ずっと自分の甘ったるい容姿が好きになれなかった。だが、柊一にそんな顔で見つめられると、この顔で生まれて来て良かったと思える。 「海里さん、『春のうらら』とは、まさに今、この瞬間ですね」 「あぁ、空が晴れて日が柔らかくのどかに照っているからな」 「紫式部が書いた源氏物語の『胡蝶』に、こんな句があります」 『春の日の うららにさして 行く船は 棹のしづくも 花ぞちりける』  春の陽がうららかに射す中、棹をさして行く舟は、そのしずくも花が散る様のようです。 「いいね、春の情景が浮かぶよ。それにしても柊一はやはり博学だな」 「実はこれも予習しました。今日は海里さんと沢山お話したくて」 「嬉しいことを。ただ君が傍にいてくれるだけで幸せなのに……そんなことまで」 「海里さんがいて下さると、僕の世界はどんどん広がっていきます」  ふと、大きな川の流れに、俺たちのこの先の人生を思う。 「柊一、俺たちは男同士だ。子孫を残すことはないが、最後には愛を残せるよう流れていこう」 「はい、心得ております。流されるのではなく、流れていきましょう」  ふたりで隅田川沿いの桜並木を歩きながら、語り合った。  歩き出すと、柊一の歩調がだんだん遅くなってきた。 「歩き疲れたのだね」 「……すみません。草履は履き慣れないもので」 「あと1時間程度で、桂人が浅草寺の近くに迎えに来るが、徒歩で戻るのは辛そうだな」 「申し訳ありません」 「おぶろうか」 「とっ、とんでもないです」  柊一が真っ赤になって首を横に振る。 「では、あれに乗ろう!」  俺が指さしたのは、観光客相手に往来する人力車だ。 「えぇ? あ、あれは観光の方が乗られるものですよ」 「ん? 俺たちも観光客だろう?」 「……都内に住んでいるのに」 「ふっ、柊一は頭が固いな。忘れたのかい? 俺たちは『おとぎの国』からの観光客だよ?」  柊一が、俺の言葉に笑みをこぼす。 「海里さん! あぁ……だから僕はあなたが好きです」  とびっきりの愛の言葉を、今日も生み出してくれる。
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