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冬郷家の春 9
「柊一おいで!」
「はい!」
海里さんに手を引かれて人力車に乗ると、一気に視界が開けた。
「どうだ? 気持ちいいか」
「はい! 景色が違います……でも」
男二人で人力車はやはり目立つようで、通りすがりの人が不思議そうに見上げてくる。
それは不快感ではなく、憧れや羨望の眼差しで、悪意はなさそうだ。
だが、やはり僕は注目されるのに慣れていなくて、俯いて目を閉じてしまった。
冬郷家の主たるものが、こんなことではと思うのに、意気地なしだな。
「柊一、どうした?」
「……いえ、何でも」
海里さんに心配そうに聞かれても、そう答えるのが精一杯だった。
すると……
「君、出来るだけ人通りが少ない道を選んでくれないか」
「へぇ、畏まりました。1本奥にいい抜け道があるんです」
「いいね、任せるよ」
人力車が急に左折すると、一気に静寂が戻ってきた。
「よし、静かになったな」
「あ……はい」
「柊一、今度はどう?」
いつも背丈があまりに違うので、見上げることの多い海里さんとの距離が近いことに気付いた。それに狭い人力車なので、体が密着していてドキドキする。
「今度は、近すぎます」
「ふっ、注文の多い子猫ちゃん、可愛いな」
「あ……」
海里さんはとても楽しそうだった。
「景色を見てごらん」
木造住宅の軒の植木にも花が咲いている。
どの家にも春がやってきている。
「この先にいい場所があるんですよ。立ち寄っても?」
「あぁ!」
人力車の車夫が停止して見せてくれたのは、神社の庭だった。
「ほぅ、ミモザと桜の饗宴か」
「えぇ、二つが同時に満開になって見事なんですよ」
黄色いミモザの花と海里さんの明るい髪色が被って綺麗だった。
「柊一、桜とミモザはタイプの違う花だが、寄り添って立っていると引立てあっているようで落ち着くな」
「えぇ、海里さんはミモザのようです」
「それをいうなら柊一は桜だよ」
ゆっくりと人力車が動き出す。
ガタンとした揺れに僕が前のめりになると、海里さんがそっと支えてくれた。
その仕草に胸が高鳴る。
風が吹くと桜の花びらがはらはらと舞い降りてきて、海里さんの頬をかすめた。
「海里さん……」
辺りには誰もいない。
僕は春風にそっと背中を押されて、海里さんの頬にそっと唇を寄せた。
「えっ」
海里さんの方が驚いて目を見開く。
「今、何を?」
「あ、あの……僕も桜の花びらになってみたくて」
「柊一は……桜の妖精みたいだな」
「ごめんなさい。僕……また」
「何を謝る。俺は幸せなのに」
僕を見つめる海里さんの頬も薔薇色に染まっていた。
人力車が風を斬って走り出せば、僕たちの世界も開けて行く。
まさに流されるのではなく、流れていく感覚だ。
「さぁ、桜の妖精さん。そろそろおとぎの国へ戻ろうか」
「あ、はい」
「きっとうさぎが首を長くして待っているぞ」
「え? 今、なんと……? うさぎとキリンですか」
「はは、キリンはいない。狼はいるかもしれないが」
海里さんは楽しそうに微笑むのみで、詳しくは教えてくれなかった。
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