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紐解いて 3
「瑠衣、思い出してみろよ、俺とお前が出会った日を」
「海里……」
「さぁ話せ。兄さんに何を強要されている?」
「それは……」
僕はうなだれるように、書庫の大きなソファに腰掛けた。
俯いた拍子に、ぽたぽたと涙が零れ落ち、固く握った拳を濡らした。
涙なんて──
泣いたのは、久しぶりだ。
海里はいつだって、本当に困った時は、こうやって手を差し伸べてくれる。
遠い昔の……あの日もそうだった。
****
「かあさん……まだなの? はやくかえってきて。う……うっ……」
いつも夜になったら、ここに戻って来てくれるのに、真夜中になってもかあさんが帰って来ない。
まだ6歳の僕は、部屋の片隅で薄い布団に包まって泣いていた。
「かあさん……っ、こわいよ」
僕が住んでいるのは、大きなお屋敷の粗末な屋根裏部屋、日光の届かない北向きの寒く寂しい部屋だった。
住み込みの使用人だった母と僕は、肩を寄せあって細々と暮らしていた。
父さんの顔は知らない。
ずっと聞いてはいけないと言われていた。
「るい、ごめんね。あなたに罪はないのに、こんな暮らしをさせて」
「泣かないで。僕は、かあさんがいれば、それでいいよ」
「……あの人に認めてもらえれば、ちゃんとした教育を受けさせてもらえるのに。あなたをこんな薄暗い部屋に閉じ込めていなくてもいいのに」
「かあさん?」
かあさんは美しい顔を歪めて、涙を流していた。
抱きしめられると……清らかな泉のような透明な涙が、僕の頬を濡らした。
「るい、覚えておいて。それでも……人を愛することを忘れないで。どんな目にあっても……いつかあなたは、あなたを真実の愛で包んでくれる人と出逢えるはずよ。かあさんの分も幸せになって欲しいの……」
それが最期に交わした言葉だった。
仕事中に倒れたかあさんは、もう二度とこの屋根裏部屋に戻って来ることはなかった。
何か重たい病気になってしまったのは、子供心にも察した。
翌日、僕も白衣の人に捕まえられるように病院に連れて行かれ、沢山検査をされた。
「いやだ! ちゅうしゃ、こわい! かあさん! 」
どんなに泣いても喚いても、かあさんはもう……来てくれなかった。
暗い屋根裏部屋しか知らない僕は、白い天井、白い壁、白いベッド、白いカーテン……白い世界が怖かった。
暗い場所がいい!
自ら影に隠れられる暗い場所が──
何日も何日も経ってから、ようやく僕を迎えに来てくれたのは、かあさんではなかった。
驚いた事に、お屋敷のご当主さまだった。
「あの、なんで……」
「お前が瑠衣か……なるほど、よく母親に似ているな」
「……だれ?」
「私はお前の……父親だ。だが、お前を私の息子としては扱えない。分かったな」
残酷なことを言われたのは、幼心にも理解できた。
「いいか、よく聞きなさい」
「はい」
「お前の母は、療養の末……死んだよ」
抱えていた白い兎のぬいぐるみを、ぽとっ地べたに落としてしまった。
兎のぬいぐるみは、かあさまが縫ってくれたもの。
『るい、泣いたら赤い眼になってしまうわよ。ふふっ、なんだか母さんの故郷の白兎みたいね。ほら出来た! この子は、るいのおともだちよ』
僕の世界はかあさんと白兎のぬいぐるみだけだったのに。
この人が……僕の父さん?
「さぁ行くよ」
「あの、どこに?」
「お屋敷に戻るのだ。お前は特別に使用人として屋敷に置いてやろう。学校には行かせてやる。感謝するように」
「あ、ありがとうございます……」
大きな手に繋がれたのは、ただの一度。
この時だけだった。
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