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湊の住むマンションに着くと、慣れた様子でポケットから出した鍵を差し入れ、解錠するところを横から見守った。
いけないことをしているようなのが、れんげを気恥ずかしくさせる。
そんな気持ちを吹き消すため、開かれたドアを押さえる湊の腕の下をくぐりながら、れんげは明るく声を発した。
「お母さんて、お仕事、遅いの?」
「7時は過ぎる。なに? そんな遅くまで相手してくれるわけ?」
何の気なしに聞いた質問が自身を追い込む。
「そ、そういう意味じゃないから! もうっ」
言い返して、思った。
湊ばかりがいつも余裕で、れんげはからかわれてばかりだ。
その度ムキになって言い返す自分が、湊と比べて幼な過ぎる。
「あっつ」
どさりと鞄を置き、手にしたリモコンで湊がエアコンを起動させる。
ネクタイを抜き取る湊の後ろ姿が、なんだか大人っぽく見えて、目が離せない。
きっちり着こなした爽やかな姿ももちろんだけれど、ルーズさを感じさせる気の張らない姿も格好いい。
黙っている時の湊は、時々大人っぽい色気を漂わせる。
まじまじと見ているところを、くるりと湊に振り向かれた。
「やらしい目で見んな」
「……」
「見てたのかよ」
「違うけど……」
言い訳したものの、大きな背中や腕、骨の目立つ手、長い足に高い身長。そのどれもが自分とは違いすぎていて、否が応でも男を意識させられる。
「腹減った。食うぞ」
「あ、うん」
湊には余裕があるように思えて、ずっとドキドキしているのは自分だけなのかとちょっぴり悔しさを感じる。
何食わぬ顔を装い、買ってきたアイスティーで喉を潤すと、れんげはプリンを取り出して蓋を開けた。
「いきなりそれか」
「うん。だって好きなんだもん」
「ふうん」
何を話したらいいかわからず、ゆっくりとプリンを食べた。
冷たくて滑らかな舌触りと甘さを口の中で堪能してから、ゴクリと飲み込む。
チョコレートよりケーキより、何より好きなのがプリンだ。
この柔らかさと甘さがたまらない。
プリンに夢中になっていたれんげは、湊が立ち上がる気配にビクッと体を震わせる。
それを見て、湊が笑った。
「お前、プリンに集中しすぎだろ」
(だって、こうでもしなきゃいられないよ)
部屋を出て行く湊の後ろ姿を無言で睨んだ。
「もらうから」とは言われたが、よくよく考えると好きだと言われた事がない。湊の気持ちはどうなんだろう。
一度だけ可愛いと言ってくれたが、それだってからかわれていただけかもしれない。
凪いでいた気持ちが、急に揺れ始める。
湊に好きだと言われたい。
湊の本心が知りたい。
屋上で、喧嘩を売るように告白したあの時とは違う思いが、れんげの中に芽生えている。
プリンのカップを手にぼんやり考え込んでいると、湊が部屋へ戻ってきた。
手にはコーヒーのペットボトル。
湊が飲むのはいつもブラックだ。
甘いプリンを手にしたれんげとは大人度が違うのだ、と言われているようだ。
そんな大人っぽい湊が、子供っぽい自分を好きになるだろうか。
どんどん自信がなくなって、不安になった。
揺れ始めた水面が、次々と押し寄せる波に揉まれて静穏さを失っていくように。
れんげは立ち上がった。
「やっぱり今日は帰る。なんか、疲れちゃって。ごめんね」
湊に心を読まれないように、精一杯の笑顔を向ける。
「……ふうん」
少しの間の後に湊が発したのは、たったそれだけの言葉だった。
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