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プロローグ
――事件だ。
篠崎六花(しのざき りっか)、二十七歳。いわゆる不良が集まる男子校で、教師を務めている。
生徒は自由奔放で授業には出やしないし、隙あらば職員室に花火を投げ込んでくる始末だが、私はそれを全員単位を落とすことなく卒業まで導いた。
毎日、他校生をリンチしただの、教師をボコっただの、とんでもない事件を起こす男子たちを相手にすること五年。
いつしか私のあだ名は〝鬼教師〟になり、並大抵のことには動じないと自負していた。そう、自負していたのだ、このときまでは。
「もぬけの殻だ」
午後八時、仕事が終わり彼氏と同棲中の1LDKのマンションに帰宅したのだが、部屋の中からテレビを始め冷蔵庫などの電化製品、ベッドやテーブルといった比較的高額で大きな家具が消えている。
職場の同僚から『心臓に毛が生えた女』と呼ばれている私も、ここまで急に部屋の景色が変われば、平常心ではいられない。
これはどう考えても、空き巣の所業ではないわね。
思い当たる男なら、ひとりいる。
「絶対に彼氏(あいつ)だ!」
ふつふつと込み上げてくる怒りを理性で必死に宥(たしな)め、私はいざ部屋の中へ足を踏み入れる。
私の彼氏は、いわゆるヒモ男だった。
『ここじゃ俺の才能は発揮されない』などと、口ではいっちょ前なことを言いながら定職につかず、彼女の家に転がり込んでからは、 私の収入を当てにして派遣のバイトを度々休むようになっていった。 主に、寝坊や仮病で。
だから、嫌な予感がするのだ。
私は洋服棚のいちばん下の引き出しを汗ばんだ手で開ける。畳まれた服を持ち上げて底を見ると案の定、そこから私の全財産ともいえる預金通帳が消えていた。
「やられた!」
――あの野郎、やってくれたわね!
たびたび人の財布から金をくすねる癖はあったが、まさか私の通帳の隠し場所まで知っていたとは。それに、さすがに自分の彼氏がここまでするなんて、誰が想像できようか。
怒りはついに頂点に達し、 スマホひとつ握りしめると勢いよくマンションを飛び出す。
全力疾走であの男の実家を目指していると、 頬にポタッと雫が落ちてくる。雨だ。それは次第に強くなり、髪も服もびしょ濡れになっていく。
「はあっ、最悪! はあっ、もう! なんであんな男、好きになっちゃったんだろうっ」
胸にあるのは後悔よりも情けなさ。
知人に呼ばれた合コンで出会ったときは、 不動産会社のやり手営業マンとしてバリバリ働いていた。
仕事が恋人みたいなところも気が合うな、なんて思ったりして。
彼と付き合ったわけだけれど、いつからヒモになるだけでなく、人様の預金通帳を盗むような男になってしまったのだろうか。
おそらく今日の夜逃げみたいな真似も、何ヶ月も前から念入りに計画していたに違いない。
彼は夕飯を作って『おかえり』と微笑みながら、いつ私からお金をくすねとってやろうかと算段していたのだ。
「もう絶対、男なんて信じない!」
誰にでもなく自分に誓う。
そうして、マンションから徒歩十分圏内にある彼氏の実家の前までやってきたときだった。「あっ」と、どこからか聞き覚えのある声がして、 私は勢いよく振り向く。
そこにはスウェットにサンダル姿の男――彼氏がいた。コンビニの帰りなのか、 手にビニール袋を持ち、私を見てフリーズしている。
「ちょっと、いろいろ説明してくれる?」
いきなり怒鳴ることはせず、笑みを張り付けて近づく。
どんな問題児であろうと、きっと更生の余地はある……なんて、こんなときにまで教師面してしまう自分が憎い。
「帰ってきていきなりいなくなるとか、いくらなんでもひどくない? 社会人として――」
「お前のそういうとこ、うんざりなんだよ!」
……は? なぜ、私が罵倒されねばならない。
怒りを通り越して呆れ返っていると、彼は完全に開き直ったようだ。足を大股に開き、私を指差すや否や鼻息荒く文句をたれ始める。
「口を開けば大人なんだから寝坊で仕事休むなだの、男として働けだの! そういう日本人の模範的考え方が俺は気に入らないんだよ!」
「いや、だってあんた日本人でしょうが。というか高校生じゃあるまいし、一度ならず何度も寝坊は許されないでしょう。話は逸れたけど、私が今日ここに来たのは預金通帳のことで――」
「うるさい!」
彼は小学生のように激怒して私の言葉を遮ると、その場から逃走する。一瞬呆気にとられたが、『預金通帳』の存在を思い出し、すぐに追いかけた。
「待ちなさい!」
ここまできたら、もはや話し合いの余地なし!
あんなクズ男でも、家にいてくれるだけで癒されることはあった。
仕事でへろへろになってマンションまで帰ってきたとき、窓から部屋の明かりがついているのを見ただけで安心したりして。
だけど、ようやく学んだ。残るのは結局、金だ。なんの役にも立たない愛情よりも、自分の財産を守るのが利口。
「絶対にとっ捕まえて、預金通帳を取り返す!」
その信念だけで彼氏を追いかけ、人気も車の交通量もほとんどない橋の上にやってくる。周囲は木々に囲まれ、街灯も少ないせいか薄暗い。
そこでサスペンスドラマさながら、後ずさる彼を橋の手すりまでじりじりと追い詰める。
「もう逃げられないわよ」
「く、来るなあ!」
彼の背がついに手すりに当たり、身体が仰け反る。両腕を振り回し、その足が軽く浮くのが見えた途端、全身の血の気が失せる感じがした。
「ちょっと、暴れないで! 落ちるわよ!」
私の制止は耳に入っていないのか、彼は腕を大きく振り回す。それを止めようとしたのだが、あろうことか彼は私の身体を抱え上げた。
「え――」
「もう、こうするしかないんだあああああっ」
なにを血迷ったのか、彼は私を橋の上から突き落とす。胃が宙に浮く感覚と真っ逆さまに下へ下へと引き寄せられていく身体。
――助けようなんて、するんじゃなかった。ダメ男は、最後までダメ男だった! というか、人殺しなんですけどおおおお!
私を突き落とした彼の姿が小さくなり、バシャーンッと水飛沫が舞う。
背中に息が止まるほどの強い衝撃が走ったあと、鈍い痛みが襲ってきて、指先ひとつ動かすのが億劫だった。
――く、苦しいっ、痛い、誰か助けて――。
ぶくぶくと泡沫が水面へと上っていく様を眺めながら、なんとか右手を伸ばすも、誰かが引き上げてくれる気配はない。
薄れゆく意識の中、私は強く思う。
人生の敗因は、ほんのわずかでも彼に抱いていた愛着と人としての良心。
――二度目の人生があるなら、男に振り回されるんじゃなく、男を振り回す悪女になってやる!
***
「目覚めよ、パウ」
――パウ?
どこか遠くのほうでエコーのように声が響き、私の意識は急速に浮上し始める。
「目覚めるのだー、パウ」
「パウパウうるさいわね!」
カッと目をかっ開くと、鼻先がぶつかりそうな距離に黒いモフモフがあった。
「ぎゃっ」
私は悲鳴をあげて後ろへ飛び退き、改めて得体の知れない黒い物体を観察する。
その正体は、ルビーの宝石のような瞳をした黒猫だった。首や尻尾にはパステルパープルの大振りのリボンがついている。
次に周囲を見回すと、一面闇が広がっているだけだった。私たちのいる場所だけが、スポットライトを浴びたみたいに白く光っている。
「僕はパウパウ。世界の狭間に住まう魔獣で、魂を死後の世界に導く役目があるパウ」
なんだろう、重要な話をされているはずなのに、独特な語尾のせいで緊張感に欠けるのよね。
まあ、それはさておき……死後の世界、つまり私はお陀仏になったらしい。
そのときのことは、はっきり覚えている。なんたって彼氏に橋から突き落とされて死んだのだ。記憶から抹消したくても、ムカついて忘れられそうにない。
「じゃあ、私も死後の世界に行くってわけね。そこはどんなところなの?」
「痛みも悲しみもない楽園、とでも言っておこうかな、パウ」
「ちょっと、そんな適当な説明じゃ不安になるじゃない。それになんか、含んだ言い方じゃない?」
そもそも死後の世界っていうのが、怪しい。彼は魔獣だって言うし、導くとかなんとか言って、私を食べるつもりとか? なんにせよ、パウパウはなにかを隠している。
私はすっと目を細め、ゆらゆら尻尾を揺らしているパウパウに白状しろと訴えかける。
するとパウパウはチリンッと首の鈴を鳴らしながら、考えるように小首を傾げた。
「うーん、誰かにとっては楽園でも、誰かにとってはそうじゃないんだパウ」
「煮え切らないわね。はっきり言ってよ」
「死後の世界は言い換えれば、転生を待つまでの魂の保管場所パウ。そこで思う存分幸せを堪能したら、これまでに獲得した記憶は全部消されて生まれ変わるんだパウ」
「なるほど、それは悔しいわね」
顎に手を当ててしみじみ呟けば、パウパウは目をパチクリさせる。
「悔しい? どうしてパウ?」
「私は納得のいく人生を送れなかったもの。預金通帳も盗まれて、なんというか……あのヒモ男に負けたまま死んじゃったのが心底悔しい!」
思い出すだけで腸が煮えくり返りそうになっていると、パウパウは宙に視線を投げて考える素振りを見せる。
「……ここだけの話、悲惨な末路を辿った魂には、特例で記憶を保持したまま異世界に転生できる権利があるパウ」
「え、本当!? それを先に言いなさいよ」
記憶があれば、今度こそ間違いは犯さない。ヒモ男となんて付き合わない……というか、男なんていらないわ。ひとりで生きていってやる!
メラメラと来世に闘志を燃やしていると、パウパウが身体を小刻みに震わせながら「パウパウパウパウッ」と不気味な笑い声をあげた。
「なんなの? 気色悪いわね」
「こんな悲惨な死に方するなんて可哀そうパウ。稀に見る悲惨な最期だったパウよ。きっと、後世に語り継がれること間違いなしパウ」
「あんた、バカにしてんの?」
「と、とんでもないパウ。話を戻すパウ。これから転生するのは魔法が存在する世界――『アルカディア』パウね。きみは今と同じ二十七歳の悪役令嬢として、異世界に転生することになるパウ」
「悪役、令嬢?」
聞きなれない言葉に、私は眉を寄せる。
「文字通り、これから行く異世界では悪役パウ。残念ながら、姫も普通の愛され令嬢も飽和状態で空きがないパウ。世界の均衡を保つためにも、これからは悪役を積極採用中なんだパウ。とはいえ、悲惨な末路を辿る魂は貴重パウ。そうそう現れないパウが」
「ふーん、で? その悪役、強いの?」
「文武両道、お仕置き魔法に関しては右に出る者はいないパウ。完璧で絶世の美女すぎるゆえに求婚してくる男は星の数ほど。その男たちを弄ぶだけ弄んで、ポイ捨てしてきた令嬢パウ」
それは確かに悪役だわ。そのお仕置き魔法がどんなものかも気になるところだけれど、強ければなんでもいい。
私はパウパウのほうへ大股で近づき、その身体を持ち上げる。
「上等じゃない、悪役令嬢。私に相応しい来世よ!」
「悪役なのにノリノリパウね。普通は勇者とか女神とか、そういうものに憧れるものなんだけど……きみは死に方だけじゃなくて性格も変わってるパウ。じゃあ、転生させるパウよ」
ふわりとパウパウの身体が宙に浮きあがり、赤い光を帯び始める。その禍々しい光景を食い入るように見ていたら、パウパウがそっと地に降り立った。
その途端――チリンッと鈴の音が響き渡り、足元に魔法陣のようなものが現れた。
「なにこれっ」
驚く間もなく、魔法陣から私の身体を呑み込むほどの光が放たれる。
――眩しい!
やがて視界は白に塗り尽くされ、パウパウの姿も見えなくなる。
いよいよ転生するのだと、そう悟った私はほくそ笑んだ。
「これまで教師として、公私ともに品行方正に生きてきたのよ。次こそはとことん羽目外して、強く逞しく悪役令嬢ライフ、楽しんでやろうじゃない!」
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