紫陽花の咲く

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 葵登が初めて上京したのは高校を卒業してすぐの春のことだった。  地元とは違う空気や建物、人の多さにワクワクとドキドキを混ぜ合わせた気持ちで東京駅に降り立つ。  名前も知られていない大学だけど入学が決まり、住む場所も決まった。これからはあの地味で陰気臭い田舎とはおさらばだ。この大都会で新しい生活を初めて、新しい自分に生まれ変わる。  そう期待を込めて住所の書かれた紙を片手にだどりついた先は、古ぼけた一軒の家だった。グルリと生け垣に囲まれ、まるで祖母の家のようなたたずまいに呆然と立ち尽くす。横を見ると猫の額ほどの庭があって、名前もわからない木々からは新芽が勢いよく顔を出している。  忙しいしよくわからないからと家探しを東京に暮らしている叔母に任せたのが悪かったのか。ドラマに出てくるような素敵なマンションを期待していたのにまさかこんな古い家だなんて。  どうしようかと立ち尽くしている葵登を察したのか、突然玄関の開き戸がきしんだ音を立てた。中から背の高く細身の男の人が顔を出し、葵登を見るなり「あれ?」と声をかけた。 「君、もしかして……菅田さんの」  ほんの少しかすれた大人の人の男の声に葵登はピンと背筋をのばした。  間違いない。ここが葵登がこれから住む場所なんだ。 「御坂さんですか」 「そうだよ。よく迷わず来れたね」  染めているのか淡く光を反射させる茶色い髪は柔らかそうにフワフワと風に揺れた。長い首の上にある小さな顔は地元では見たことのないくらい綺麗で整っている。 「どうぞ、入って!」 「あ、はい……」  誘われるまま家の中に足を踏み入れると、今まで暮らしてきた自分の家よりさらに古そうだった。広い三和土と靴箱。腰をかけられる高さの上がり框より先にはあめ色に磨き上げられた廊下が続き、その先に曇りガラスの引き戸があった。  玄関のそばには二階への階段が薄暗く口を開いている。 「古くてビックリしたでしょ。若い子に本当にここでいいのかって何回も確認したんだけど、地味な子だから……あ、ごめん、んと……派手なものが好きじゃない子だからこれくらい落ち着いている方がいいだろうって、菅田さんが」  地味な子、と口の中で繰り返し葵登はむっとした表情を浮かべた。確かに身長も顔も平均的だし、都会の人に比べれば身なりも特徴がないくらい普通。地味で悪かったねと、ここにはいない叔母に文句の一つも言いたくなった。  ここを紹介してくれたのは、父方の叔母だ。きつい性格で独身の彼女のことを葵登はあまり好きではない。だけど東京で画廊を経営してるしっかり者の叔母に任せておけば大丈夫だろうと、父はこれからの葵登の生活を彼女に頼んだ。 「叔母をなんで知っているんですか?」  年齢も違いすぎるし、接点があるようには思えない。  地味な子と言われたのが恥ずかしくも気に障り、ぶっきらぼうに問いかけてしまった。だけど彼はそれを全く気にもせず「菅田さんとは仕事繋がりかな」と答えた。  ぽこぽこと水玉のような模様の曇りガラスがはめ込まれた扉に手をかけると、通された部屋は想像していたより広かった。  縁側から庭が見渡せ、日がよく当たるのか明るく温かい。無造作に置かれたグリーンが生き生きと葉を広げていた。ソファなどのインテリアもクラシックなあめ色で、大事に使い込まれているらしかった。 「改めて自己紹介させてもらうよ。ここの持ち主の御坂倫幸です。ノリってみんなに呼ばれているから君もそう呼んで」 「ノリ……さん」  さすがに年上の人を呼び捨てにはできないと敬称をつけて呼ぶと、彼はふふっと楽しげに笑った。 「うん、いいよ。ノリさんで。君のことはなんで呼べばいい?」 「普通に葵登ってみんなは呼びます」  地味な葵登には特にキャッチーな呼び名もない。  面白みもない返答にノリさんは了解したと頷いた。 「わかった、葵登。これからよろしくね」  ノリさんのこの広い一軒家には使っていない部屋がいくつかあって、時々居候のような人を住まわせているそうだ。東京で一部屋しかない狭いアパートを借りるにも莫大な金額がかかるらしい。格安で住まわせてもらえるのは助かる、と、両親は迷いもないここに決めていた。 「ご飯とか自由にやってくれてもいいけど、嫌じゃなければ一緒に食べよう。そっちの方が無駄がない」  ノリさんはてきぱきとここでの暮らしを説明し、質問がなければ部屋に案内しようと階段に向かった。 「おれは下で生活しているけど、葵登は二階の一部屋を使って。今のところ君しか住人はいないけど、この先の予定は未定。新しい人が入るかもしれないけどいい?」
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