プロローグ

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プロローグ

 ロープがぴんと張った。  男は一気に上昇し、二階の床の下端でがくんと止まった。  体が派手に揺れた。  血の気の失せた顔や胸元には無数の傷。  だらりとぶら下がった腕。  指先から赤い雫が滴り落ちた。  眼前には、暗いエントランスロビー。  むき出しのコンクリートが放つ独特な臭気。  色みのない白々とした小さな照明が、がらんとした空間を構成する灰色の壁や床面を照らしていた。  男は束の間、空中に浮遊したかのように見えたが、唐突に落下した。  足下に穿たれた穴を通り抜け、地下の暗闇へ。  こわばった直立姿勢のまま、わずかに前のめりになりながら。  履いていた工事現場用の黒い人工皮革の安全靴は役にはたたず、かかとの骨が砕けた。  膝をしたたかに打ち、顔面を床のコンクリートに叩きつけた。  鈍い音ともにセメント混じりの砂埃が舞った。  見開かれた男の眼球に、床に散乱した砂粒や材木の細破片が映った。  しかしやがてそれらも、流れ出た血にたちまち浸されていく。  男にその様子が見えていたのかどうか。  眼球には血まじりの泥がこびりついていた。  このわずか数秒足らずのショーを、もし誰かが見たとしたら、きっと今見たばかりのシーンを心の中で反すうし、自分の気が確かで幻を見たわけではないと悟るやいなや、恐怖の叫びをあげただろう。  もし、一階ロビーの床の穴から見下ろせば、いずれ地下駐車場になる空間に、血の染み出た作業服姿の男が投げ出されているのを見ることができただろう。  そして、陥没した男の後頭部、その大きな傷の回りの血がすでに粘りを持ちはじめ、白いものまじりの髪を絡めているのを見ることができただろう。  そして、外にまだたむろしていたパーティの参加者に、ことの急を知らせたに違いない。  男は、自分が演じたショーの直後に、上のロビーを横切って近づいてきた足音を聞くことができたかもしれない。  誰かが一斗缶を赤く塗った現場用の吸い殻入れに、火のついたタバコを投げ捨てた気配を感じることもできたかもしれない。  とはいえ、この想像は、男の感覚器が脳に刺激をまだ伝えることはできたかもしれない、というだけのことだ。  判断する能力があったという意味ではない。  男には、自分の顔の上に落ちてきた長いロープを払いのけることはもちろんのこと、血のついた指先をぎごちなく動かし、コンクリートの床のざらついた感触を確かめる力さえ残されていなかったからだ。  男の体からは体温が急速に逃げはじめ、意識はその華奢な体を離れ、魂は誰も見聞きしたことのない無限の闇の中に漂い出ていった。  最後まで残っていた若いゼネコン職員は現場事務所の鍵を閉め、エントランスロビーを横切っていった。  照明を消して回らなくてはならない。  工事途中のマンションにはひと気がない。がらんとしたほこりっぽい空間に足音が響いた。 「ちぇっ」  いやな匂いが立ち込めていた。  事務所に引き返し、やかんに水を入れて再びロビーに向かった。  薄暗い一角に、地下に資材を搬入するための大きな四角い穴が穿たれている。その穴の傍らに吸い殻入れが置いてある。そこから強烈な臭いのする煙が猛然とたち昇っていた。  息を止め、くすぶっていた大量の吸い殻にたっぷり水をかけると、穴の周りに張り巡らされた、鉄パイプの落下防止柵を掴んだ。  地下の配管工事が終わると穴は閉じられ、一階ロビー周りの内装仕上げ作業が始まり、工事は佳境に入ることになる。ますます忙しくなる。  しかし、職員の心に浮かんでしまった疑惑は消えそうになかった。わだかまりも大きくなるばかり。  職員はしばらくの間、単管の冷たさを手の平に感じながら、殺風景な空間を眺めて自問していた。  急に酔いを感じた。  充満したタバコの煙に、気分が悪くなってくる。  やがて職員は、確かめずにはいられない、と答えを出した。
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