1.帽子岳の山頂で

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1.帽子岳の山頂で

九月の残暑に耐えながらも私、山浦亜紀35歳は一人グラウンドで一ヶ月後に控えた運動会のライン引きをしていた。 大玉転がし、玉入れ、組体操とそれぞれの競技によって引くラインが違う。 一個一個ずれないようにライン引きを押す。途中白い粉が喉に入り何度も咳き込む。 どこまでも突き抜けた青空が徐々に夕焼けに染まっていった。 普通の小学校の二倍はあるかという広さを誇る我が校のグランドで、二時間かけてラインを引きを終えた。全身石灰で白く、汗だくになりながら職員室へと戻る。 「お疲れ様」そんな声をかけて貰えると期待して職員室へと入ると、もう教頭先生以外に誰も居ない。 誰も座っていない机が職員室を広く感じさせた。 平成元年卒業生寄贈と書かれた大きな時計をみると午後六時四十五分を指している。 「そりゃあみんな帰るよね」と呟くと、それに気づいた教頭先生が自分の机からキットカットを一つ取り出してくれた。   「助かったよ、山浦先生以外みんな家庭があるから、一人暮らしなんて本当に貴重な働き手だよ、今は男女平等の時代だからね」 という褒め言葉のような鋭く心に突き刺さるナイフのような言葉をかけられた。 そして教頭先生は「あっ、山浦先生、校長先生がお話があるとのことでまだ部屋にいますのでちょっと今いい?」と校長室に私を送り込んだ。 ドアをノックし、職員室の隣の校長室へ入ると、校長先生がパソコンで何やら作業をしていた。  「あっ、山浦先生。お呼びたてして申し訳ありません。実はお願いがあるのですが」 また来た、次はどんな雑用を押し付けられるのか。 自然と小さなため息が出た。 あれだけ学校のために尽くしたのに、褒めては貰えず、また次の雑用だ。 次の瞬間、校長先生は両目が飛び出そうな事を言った。 「実は最近職員室の空気が悪くて、そのですね派閥間対立を暫く辞めて貰えないかなと思ってね」 「……派閥?」 「そう、山浦派と森野派の対立、男性職員が怖がっちゃって、ちょっとここは一つ穏便にお願いします」 校長先生がそう言って私を拝むように頭を下げた瞬間、校長室の昭和三十年卒業生寄贈と書いた古時計が少し早い7時を告げた。 ポーンポーンという音が校長室に鳴り響く。 知らない間に派閥の長に祀りあげられる35歳、秋。 校長室を出て、女子トイレに駆け込むと慌てて一番良く話す図書館司書の27歳新婚、松浦真美先生に電話をかけた。 派閥ってそんな馬鹿な、校長先生の勘違いでしょ?そう信じたかったのだ。 「もしもし、真美先生?なんか校長先生に今呼び出されたんだけど」 「森野派との対立のことですよね?私達山浦派は絶対負けませんから!」 自分はどうやら本当に派閥の長だったらしい、思わず息を呑んだ。 この間まで若手だったはずなのに、いつの間にかお局ポジションまで上り詰めてしまった。 私のショックなど知りもしない電話口の真美先生は話を続ける。 「だから、森野先生が私達のこと睨んできて」「私達も森野先生達を睨み返して」 そして真美先生にどれだけ聞いても対立の原因はよくわからないこの地獄。 わかった事は山浦派は、自分、真美先生、30歳の村田美雪先生、森野派は私と同い年の森野美香先生、33歳の岡本さゆり先生、26歳の永山未知先生らしいという事だけ。 そういえば、あの三人最近刺々しかったわ、特に気にしてなかったけど。 自然と乾いた笑いがこみ上げて来る。 「全職員合わせて20人もいない小さな学校なのに、派閥争いとか無駄じゃん。いい加減にして欲しい」 と思ったが、他のみんなが一番思ってんだろうな。 疲れた。 電話を切ると大きなため息が出た。 ふらふらとよろめきながら、職員玄関を出ると砂利道を踏みしめながら車に乗り込んだ、 とにかく山を下り、この辺の唯一のショッピングモールオゾンを目指した。 私が勤務している小学校は群馬県の山の中にある。自慢できることは標高1015メートルに位置しているということだ。 そしてここは群馬というより長野なのだ。 所謂長野に一番近い群馬だ。 事実、村民はみんな山を下って長野にあるオゾンに買い物に行く、テレビもラジオも長野の放送しか流れない。 そして私も長野にあるアパートに住んでいる。 しかし村民達は自分たちを生粋の群馬県民と信じている不思議な村に勤めている。 嫌なことがあった日は平日の午後七時以降オゾンをブラブラすることにしている。唯一のストレス解消法だ この時間なら村民がいなくて誰にも会わないからだ。 いつ来てもやけに明るいオゾンの二階の洋服売り場を当てもなく歩くと、一つのTシャツに目が止まる。 ピンクの生地に緑のバナナがハローと言っている図柄だ。 「何これ可愛い。買っちゃおうかな登山もあるし」 レジで代金を払うと、さらに本屋にも寄って立ち読みし、ここから車で二分ぐらいのアパートへと帰った。 部屋に着くとご飯を食べる気がしなかったので、すぐベッドに倒れ込みいつの間にか寝ていた。 こうして私のいつもの冴えない一日が終わった。 翌日の放課後、それは突然やってきた。 残暑厳しい常夏の教室から子供達が帰り、ようやく一息ついた職員室で、二週間後に控えた登山で使うしおりの印刷をしていた。 印刷機がサッサッサッと紙を次から次へと吐き出していく。 そんな時に校長先生に呼ばれ、途中で印刷を中断して校長室へと行った。 部屋の中では満面の笑みの校長先生が教頭先生を従えてこう言った。 「登山、テレビの取材入るそうだ」 私はいつもの村のケーブルテレビ、山の上ケーブルテレビ、通称ycvかと思い素っ気ない返事をした。 「はい、わかりました。ycvの人も大変ですね、登山についてくるなんて」 教頭先生が私の勘違いに気がつき、慌てて訂正した。 「違う、違う。全国放送の番組。しかも芸能人も来るってさ」 「えっ凄い!誰が来るんですか?」 田舎者根性丸出しで前のめりになった。 生粋の田舎者と自負している教頭先生は得意気に言った。 「ラビッツの北澤さんって知ってる?」 「あー知ってます、結構な有名人じゃないですか、子供達喜ぶだろうな」 ラビッツは中堅お笑いコンビで、子供達からの人気も高い。 北澤さんと丸山さんがいて北澤さんは大らかで子供好きで優しそうな感じ、確かお子さんもいらっしゃったはず。 反対に丸山さんは独身で神経質そうで動物と子供が嫌いと公言してるのに、そっち系のロケばっかり行かされている。 そして服が汚れたとか手が汚くなったとか、しょっちゅう怒ってるイメージがある。 何だかとても拗らせてるイメージ。 でも北澤さん来てくれるなら、いいなぁ楽しそう。 ここでふと我に返った。 「何で全国放送がわざわざ登山に?」 「何かね、元を辿れば東京に出て行った安原さんの息子さんらしいよ。 うちの村で学校登山があって、鏡交信って面白いことやってますよってテレビ局関係の人に話したことが発端みたい」 「へぇ、でも鏡交信って長野の方の学校でやっててそこから十何年前にうちの学校でも導入したってこの間、教頭先生が」 流行り物好きの校長先生がそんな私の不安を一蹴した。 「うーん、いいんじゃない?折角、全国放送来るし」 校長先生の最新式タブレットからLINEの着信音がした。 校長先生は気まずそうにタブレットを机に片付けた。 「だから子供達の撮影許可取らなくちゃいけないから、今からお家向けにお便り作ってもらってもいい?」 「はい、わかりました」と快諾し、校長室から出ると心なしか足取りが軽い。 ここ山の上村は人口1000人程度しかおらず、村の観光スポットはダム、村の名産品はレタスという典型的など田舎だ。 だから余計に芸能人が来たら嬉しいのだ。 ウキウキしながら職員室に戻ると真美先生と美雪先生が二人残っていた。 「亜紀先生、さっきの校長先生の話なんでした?」と真美先生に聞かれた。 「凄くいい話、明日の朝会で正式に発表になるらしいんだけど、今度の登山に全国放送の取材入るんだって」 隣村出身の真美先生と隣の町出身の美雪先生は全国放送という響きに興奮した。 「すごい!ycvじゃなくて全国放送!?」 「しかも、おまけにラビッツの北澤さん来るんだって」 二人は悲鳴を上げた。 「すごい!ここに芸能人がくるなんて!」真美先生がテンション高く喜んだ。 美雪先生が「しかも北澤さんって凄く優しそうでしょ?北海道のじゃがいもみたいな顔してるけど、子供大好きだし」と言った。 真美先生が得意顔で言った。  「確かお子さん三人いらっしゃったはず。この間テレビで家の様子映ってたけど、奥さんの家事とか手伝ってて凄くいいパパでしたよ」 「へぇー優しそう。じゃあ楽しみ」と相槌を打つと、美雪先生が「丸山さんの方じゃなくて良かったですよね」と言った。 「確かに!神経質そうだし、一緒に山登れって言われたら気遣って何倍も疲れそう」と真美先生が爆笑した。 「テレビでよく服濡れたって怒ってるの見るもんね」 そう相槌を打った。 真美先生が顔をしかめて呟いた。 「あの人わりとシュッとした顔してるでしょ?だから若い頃相当女癖悪いって評判だったらしいですよ」 美雪先生も渋い顔で「今でも絶対彼女つくらないし結婚しないけど、風俗店行きまくってるって公言してますしね」と言った。 「なんか色々拗らせてる人だよね」 と私が言うと二人も「拗らせてる」と同意した。 それからの二週間はあっという間だった。 一ヶ月後に控えた運動会の練習も始まった。 校長先生や教頭先生が「ようこそ北澤さん」という横断幕を作ろうと言っていた。 けれど「何だか余計に田舎者っぽくなるから辞めましょう」と説得してやめさせたこともあったし、あっという間だった。 登山前日の夜、窓からの秋風に吹かれカーテンが揺れている。 リュックサックの中身確認の三回目が終わりようやくチャックを閉めた。 神経質な私はそれでもまだ忘れ物がないか心配になる。 気を紛らわせようとテレビをつけるとちょうど明日一緒に登る予定の北澤さんが出ていた。 トーク番組のゲストとして呼ばれてコンビで出演しているようで、隣には丸山さんもいる。 北澤さんが「奥さんが三番目出産してからは大変なので家事はできるだけ手伝うようにしてますね」と話した。 司会者の男性タレントが「いい旦那さんだなぁ、女性の視点からみるとどう?」と隣にいる女優さんに話を振った。 「凄く嬉しいですよ、本当に北澤さんの奥さんが羨ましいです」 そう煽てると司会者が今度は丸山さんに話を振った。 「丸山君は結婚とかしないの?」 「しないですね、僕子供嫌いだし」 そう言って苦笑いした。 司会者の人がしつこく話を振る。 「でも結婚はいいよ、家に帰って灯りがついてたらホッとするよ」 「いや、僕基本的に女の人苦手なんですよ。夜の蝶の皆さんがお仕事なさってる時は好きなんですけど、普通の状態の女の人は好きじゃないんですよね。 だから一生女の人と分かり合えること無いと思いますね」 女優さんから「もう最低」と言われ北澤さんにも「こいつこう言う奴なんです!」と指をさされても丸山さんは得意気に笑っていた。 私はテレビを消すと布団に入り、明日来るのが北澤さんで良かったと心底思った。 テレビで何割かは大袈裟に言ってるにしろ、丸山さんは拗らせすぎでしょ。 私も拗らせてるから人のこと言えないけど、あれは酷い。 そんな事を考えているうちに、いつの間にか眠りについていた。 登山当日の朝七時、職員室に出勤すると校長先生、教頭先生と数人のテレビ局のスタッフらしき人がいた。 北澤さんはどこかなと探したけれど見当たらない。 けれど相方の丸山さんの姿は校長先生の横に見つけることができた。テレビでの神経質な姿と違って背も高いし顔もシュッとしててかっこいいじゃん。 それにしても、どこで連絡間違ったんだろう。
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