筋を這う

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筋を這う

         筋を這う  ちょっと立ち寄った薬局で試し買いしたのは、ちっとも効き目が無いと見える。持病の腰痛は、近頃急激にその性格を悪化させ、私の手に負えるものでは無くなった。何とか、治療しようと、数多の人の手を借りるが、今のところ成果は挙げられない。こう努力しているのが、不毛にも思えてくるが、努力故の現状維持だと近頃は納得していたのに、いささかでも油断すると途端にこれだから敵わない。腰痛持ちと言うのは、中年層には万国共通で、不治の病と見受けるが、どうも生きているのが辛いという気にさせられるのには滅入る。  只今、私は駅からの帰り路を辿る最中である。こうも始終、見慣れた風景が相手では、気分も乗らない。だから、ちょっくら遊んでみることにする。——背筋を伸ばそうと心がけていると、そればかりで少しも面白くないから、何かしら遊びに興じてみようと言う試みである。  私の考えた遊びは、まず、『観察』である。観察と言うと、道中の娯楽には、至極短絡的であるとの指摘を受けるかもしれない。うん、私もその通りだと思う。だから、反駁をやろうとは思わない。でも、ぱっと思いついたのがこれだから、致し方無い。それで一つも不自由が無いのだから、実行するに限る。  手始めに、種々の看板に目を留めてみる。サイクルショップ、だの、うんたらマンション、だの、皆好き勝手自己主張するから、視界が混雑して嫌だ。普段歩いている分に、何か注意が雑多になるのは、なるほど、道端に溢れるこういう声明の文字共の仕業に違いない。こいつらが知らず知らずの内に私の頭の内を蹂躙して、弁えず土足でドタドタやるから不快なのだ。湿気やら、暑さやら、自然はちっとも悪い事をしていないのである。恐れ入った、こればかりに文句を垂れる人間のいかに愚かか。——観察によって得られた一つ目の収穫である。分からず屋に早く教えてやりたい。生憎、今は話し相手がいないから、家に着いたら娘にでも語って聞かせてやろう。  看板を見るのはやめだ。ここに連ねられている情報は、一つも必要が無い。かと言って、無心に帰すと、段々麻酔が切れて腰痛の勢力が復す。やはり、観察を続行する他にはあるまい。今度は、上空や、足下の道を注意深く見てみる。  空中には白雲がぷかぷか浮いている。これはいずれ霧散して、水蒸気となる儚い形状であるから、じろじろ見ているのはよした。下方にはやたら小虫が這っている。蟻というのは、どこにでも出没するものらしい。団子虫なんかもいる。側に雑木林があることも、関連しているのかもしれない。  梅雨時は過ぎたが、どうも湿っぽい感じは抜け切らない。先刻に降った雨の影響だろうか、これは虫共がこぞって好む気候らしい。私は経験則でこう考えるから、実際にどうなのかは知らない。  舗道をうじゃうじゃ蠢動しているのを見下ろすのは、好ましくはないけれど、虫にも特段悪気は無いわけだから、咎めようとは思わない。踏み潰そうとするのは邪気である。——慈悲深いな、自分。うん、私は僧のように命を愛する。慈悲深いなあ。——少しも愉快じゃない。虫一匹生きようが死のうが、人間様の感知する範疇にはあるまい。これが、本音である。——観察と言う遊びは、どうも疲れる。  腰の痛いのも忘れるくらい、無心に歩けば良いのだと発案する。そう思って、しばらくテクテク行くと、いつの間にか踏切に差し掛かった。ここまで来れば、もう家は目と鼻の先である。どうだ、無心の境地は、と誰だかに自慢してみたくなる。この悟りは尊い。生きて行く上で、是非身につけておきたい芸であるが、そうやすやすと到達できる極みでもない。私は、踏切を捉えたことで、この境地から脱してしまった。もう一度戻ろうと思っても、難しい。だからいささかの間、私は葛藤の下に歩かなくてはならなくなった。  幸い——と、当時はそんな風に意識することは無かったが——私は興味深い光景に気を盗られた。——雨水を流す為の溝に、一人、女子がはまっている。『はまっている』との形容にはちょっと語弊があるかもしれない。ちゃんと立って進んでいるわけだから、味気なく正鵠を射れば、彼女は溝を歩いている、と言える。  付近の小学校の生徒であろうと、私は咄嗟に思いつく。その小学校に娘も通っている。友達かしら。あんな細長い筋を敢えて好んで行くのだから、よっぽど物好きな子なのだろう。……彼女はすこぶる愉快なのに違いない。溝には先の雨のせいで、汚水が良い具合に溜まっている。底の見通せぬ前へ、少女は長靴で確かな一歩を遣る。その一歩をやたら丁寧にしている。踏みしめる。  この時私の脳裏に閃光が通ったのは、全く不意であった。彼女が慎重に歩を進めているのは——それは実質はただの徐行に過ぎないものの——無心に、無邪気に興じる点において、這うことと同義ではないか。この重なりは不思議で、特に舗道に刻まれた一筋を一心不乱に動いていた蟻の姿が鮮明に蘇った。  小虫が這うのと、少女が歩行するのと、二つの像が結合し得たのは、その共通項多き故である。虫は邪念無く息づき、這っている。それを勝手に忌々しく思うのは、見下ろす人間の方である。そして、少女は面白いから溝を這う。『這う』と言うのを字義通りに捉えてはいけない。ここでは、どれだけ丹念に行くのかが問題である。体勢の事だと考えてはいけない。無論、少女は二足で歩行しているのだ。第二に、彼らは一本道を行く。ここに無心とか純朴を呈し得る所以がある。そして、筋である意味が見出されるのだ。  観察によって得られた第二の発見を、私は一刻も早く娘に披露してやらなくてはいけなくなった。妻では駄目だ。大人に話しても、一笑に付されるのに決まっている。大人と言うのは、ほとんどが自分で何らかの一大真理を見つけた気になっている。いわば、一向に転向しようとしない学者と同じ類である。子どもは自分が正しいなどと奢った事が無いし、奢る自信も無いし、奢る必要も無い(多少の例外は除くとしても)。だから、こう言った新鮮な発見は、子どもと共有するのに限る。大人の私が言うのも可笑しいが、こうして自虐できるだけ、他よりマシだと思っている。  娘に話す。娘はどうも要領を掴めないようである。まあ、それでも良い。無邪気だの無垢だの、渦中の者にはなかなか分かるまい。  さて、この話は要して次のようにまとめられる。雲が浮かんでいるだろう。その下に人間が動いているだろう。さらにその下に虫が這っているだろう。そうして、今、この無垢を誰かが踏み潰したろう。
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