性辛説

1/1
前へ
/1ページ
次へ
辛いことというものは他者には理解されないものが多く。しかし、それでも共感を得ることが出来たのなら辛さも幾分軽くなるのである。 ある一定の生きづらさを背負ったまま日々をやり過ごすものにとって、生きているだけで辛いのだということを、そうではない人に説明し、共感されることは少ない。 少ない、というかそもそも、説明し理解を得ようとする事自体が稀なのである。こういった人間は、人と会話するのに精神と頭脳を異常なほど消費してしまうから、生きているだけで精一杯なのだ。辛ければ辛いほど、人と会話をする余裕がない。 そんな人も、当初から理解をえる努力を放棄していた訳では無いのだろう。何度も理解を得ようと努力し、伝えようと試みてきたものも多いはずだ。しかし多くは徒労に終わる。一方的な激励や生き方の否定をされることがほとんどだというのは想像に難くない。 その上、これが生きづらさの確固たる所以である、などといえるものが無いのだから気持ちの伝達は困難極まりない。 そんなことを繰り返すうち、どうせ自分は理解されない、何やってもダメなんだ、と自己否定のシュプールを描いて下っていく。 もちろん、そうなったきっかけがある人も多いだろうが、それはきっかけに過ぎず原因でも要因でもない。 おそらく、生きづらさの根本は性分や生まれつきなどに類するもので、むしろ生まれる前から決まっている本人にも変えようのないものなのだろう。 自分を変えたいと努力を重ねたとして、生まれながらの自身の基礎をそう簡単に変えることは出来ない。 変えることが出来ないのは、そんな自分を嘆きながらも嫌いになれないから、とも言える。 もし、本当に自分が嫌いなら変わる努力などしないだろう。こんな自分を愛して欲しいと願うから、変わりたいと思うのだ。 嫌いなのに大事で、苦しいのにやめられない。そんな矛盾を抱えて毎日をやり過ごすのだ。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加