一 青の魔法、名無しの駅、理想の夏

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一 青の魔法、名無しの駅、理想の夏

 この世界は、青に満ちている。  空と海だけで構成された、特別な場所に僕は立っていた。自分の周りをぐるりと見渡しても、海を渡る船や、緑の陸地や、一筋の雲さえも、見当たらなかった。  空と海は違う色をしていたけれど、どちらも群青と呼んでよかった。きっとその二つは本来同じものだ。空気も水も透明なのに、集まるといつからかそこには青が宿る。その魔法を僕はいま全身で感じていた。  ここは一体どこなのだろう。大海原の中心にしか見えないけれど、海底は足が着くくらいの深さしかないし、魚や珊瑚みたいな生き物の影もない。一歩前に進むと、ちゃぷ、と水が音を立てた。自分を中心に、波紋が広がっていく。その波紋はやがて水面の上で肩を寄せ合うようにさざめき出す。ぬるい風が世界に吹いていた。  僕はひとまず、風向きに沿って歩くことにした。どうせ同じ景色ばかりで、方角なんてわからない。指針はないよりあったほうがいい。  風はゆるやかにずっと流れていて、僕は立ち止まらず進み続けることができた。そして気づけば、それは視界の先に現れていた。  不思議な光景だった。何もないと思っていた海の上に、一両編成の電車が止まれるかどうかくらいの、とても小さな駅が浮かんでいた。ホームと、ベンチと、駅の看板、それから雨よけの屋根。  白地の看板は緑の線が横に引かれた見覚えのあるデザインだったけれど、肝心の駅名を含めて、文字が何も書かれていなかった。足元を見ると、いつのまにか水底に線路が敷かれていて、駅までまっすぐに延びていた。  駅のベンチには、一人の少女が腰掛けていた。彼女は半袖のセーラー服を着ていて、開いた文庫本に目を落としていた。こんな絶海の孤島みたいな場所に人がいること、彼女があまりにも平然と日常の中にいることに、僕は混乱してしばらく立ち尽くした。  それでも結局、その奇妙な駅に向かうしか、選択肢はなかった。  意を決してざぶざぶと歩いていき、水を滴らせながら駅のホームに上がると、少女は本から目を上げて僕を見た。 「遅かったですね。私、待ちくたびれてしまいました」  彼女と正面から視線を合わせて、僕は固まる。長い睫毛、スッと通った鼻筋。それらから漂う怜悧さとギャップのある、無邪気な瞳。  その女の子は、僕の知る人にとてもよく似ていた。  正確に言えば、記憶の中の彼女をそのまま成長させたような、少し大人びた雰囲気があるだろうか。 「きみは……高城悠乃(はるの)、か?」  絞り出すように僕が言うと、 「ええ、そうですよ。冨田和哉くん」  涼しい顔で彼女は答えた。  僕は大きく息を吐く。全くもって訳がわからなかった。無限の空と海、名無しの駅、そして高城悠乃。夢の中みたいに突飛で、だけど目の前に広がる鮮やかな情景が、これは夢なんかじゃないぞ、と真実を突きつけてくるようだった。  まずは状況を整理しよう、と僕は思った。 「ここはどこなんだ? 五年ぶりにきみと会えて嬉しいんだけど、ちょっと事態が飲み込めていないんだ」  問いかけると、悠乃は目を瞬かせたあと、ため息をついた。 「私を呼び寄せたのはあなたなのに、全く世話が焼ける人ですね」 「僕が、きみを?」 「ええ」  彼女は傍らに置いていたカバンからクロッキー帳を取り出して開いた。メモ用のノートとして彼女がよく使っていたのと同じもので、なんだか懐かしくなる。  薄い紙に鉛筆で図を書きながら彼女は説明する。 「ここは簡単に言うと、死後の世界です。あなたは交通事故に遭って命を落としてここにやってきました。この場所は、人が意識を保ったままたどり着ける限界であり終着点。現世を離れた魂が一時だけたゆたうことのできる、仮初めの安息地。私は〈サイハテ〉と呼んでいます」  サイハテ。最果て。それはこの場所にしっくりくる響きだ。駅の看板にはもしかしたら、その名前が入るのかもしれない。  しかし——そうか、僕は死んだのか。  悠乃から告げられた事実は、なぜかすとんと腑に落ちた。たった十七年で人生の幕を閉じてしまったことについて、絶望というほどの感情は湧き出てこなかった。元から怠惰に時間を過ごすだけの人生だったのだ。生きているというよりは生かされていると言ったほうが適切で、自分の命に対する執着はあまりなかった。  それでも、心残りがないわけではない。せめて最後にお気に入りの本にもう一度目を通したり、身辺整理をする時間くらいは欲しかった。 「教えてくれてありがとう。今の話を聞く限り、サイハテは三途の川みたいなもの、という解釈でいいのか?」 「そうとも言えるかもしれません。三途の川と違って、現実世界へ引き返す、みたいな都合の良いことは絶対にできないですけどね」  彼女の補足に、淡い期待が打ち砕かれる。もしかしたら、まだ取り返しがつくのではないかと思ったのだ。 「夢も希望もないな」 「夢ならありますよ」  意外にも、悠乃はそう答えた。 「あなたは若くして人生を終えてしまったことを憐まれ、一つだけ願いを叶えることができます」  神様のご配慮らしいですよ、と彼女は付け加えた。 「驚いた。神様が本当に存在するとも、そこまで慈悲深いとも知らなかった。どんな願いを叶えようか、考えるだけでもわくわくするな」 「残念ながら」  澄んだ声が耳を打った。琥珀色の瞳がじっと僕を見つめていた。 「あなたは願う権利をすでに使っています。さっきからもしかしたらとは思っていましたが……覚えていないんですか?」  狐につままれたような気持ちになる。そもそも事故に遭った記憶すらないのだ。願いなんて、心当たりがあるはずもない。 「ああ。考えもつかない。いったい僕は何を願ったというんだ?」  悠乃はまったく、と呟いて、文庫本を閉じた。ベンチから立ち上がって、僕の前に立つ。昔よりも僕と彼女の身長差は広がっていて、なのにこちらを見上げる悠乃のまなざしは凜々しく、力強く感じられた。 「あなたが死に際に祈った願いはこうです——小学六年の時に同級生だったある女の子と、理想の夏を過ごしたい」  その願いを叶えるために、この世界が用意され、私が呼ばれたんです。  彼女はどこか悲しげにも聞こえる声色で言った。  僕たちの長い一日は、実際こんな風に始まった。最高に暑くて、切なくて、理想的な一日だった。
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