四 介抱、ラムネ、鍵と鍵穴

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四 介抱、ラムネ、鍵と鍵穴

 散々ひまわり畑ではしゃいだせいか、悠乃は随分ぐったりとしてしまった。普段は物静かで理知的なくせに、羽目を外すとこの子は加減を知らないのだ。そういうところは変わらないことに、ほっとする自分がいた。 「暑いです。熱中症で死んでしまいそうです」  情けない声を出す悠乃を木陰に誘導して、僕も汗を拭う。 「この世界でも死ぬことってできるのかな?」  たとえば、今ここで首を切ったらどうなるんだろう、と不思議に思う。悠乃の説明の通りなら、僕はもう死んでいるはずだから、結末は変わらないはずだ。でももしかしたら、このうたかたの夢はその瞬間に終わってしまうのかもしれない。 「和哉くんは私を介抱する気はないんですか?」  不機嫌そうに言う彼女に「ごめんごめん」と謝る。 「元はと言えば、僕がこんな蒸し暑い季節を望んだからこうなったんだよな」 「……いえ、それは別にいいのですが」 「え?」 「とにかく。何か冷たい飲み物がほしいです。自販機なんて贅沢なものがこの島にあるかはわかりませんが、川の水とかでもいいので探しに行きましょう」 「わかった。少し待っていてくれ」 「いいえ。探しに行きましょう、と私は言ったんです。こんなところに置いていかないでください」 「でも、きみはそんな状態じゃないか」  僕がそう諫めようとすると、悠乃は「そうですね」と少し思案して、それから両手を伸ばしてきた。 「和哉くん、おんぶしてください」  消しゴムを忘れたので貸してくれませんか、と言うのと同じ調子で、悠乃はそう頼んできた。いたってまじめな表情で、けれどある意味ではひどく切実に見えた。  高校生にもなって、とか、なんでそんな恥ずかしいことを、というふうな言葉で混ぜっ返すのは簡単だった。でも大切に思う女の子にそんな頼み方をされて、ふざけた答えを返してはならないことくらいは、僕にもわかった。  僕は黙って後ろを向き、ゆっくりと悠乃の前にしゃがみこんだ。熱を持った細い腕が、おそるおそる慎重に首へと回され、不安になるくらいの頼りない重みが背中にかかった。  元々華奢な子だけれど、こんなにまで軽いのか。もしかしたら〈サイハテ〉が、生者である悠乃の魂を体重ごと吸い取っているんじゃないだろうか。  確かめようのない不安を振り払うために、僕は「立つよ」と言った。 「お願いします」  浅い呼吸を繰り返す悠乃の体調はあまり良くなさそうで、できるだけ早く、また休ませる必要があると思った。  幸いにも、ひまわり畑を囲む林を抜けると、ぽつぽつと人家が点在する町並みがあった。しかしどの家も人の気配はなく、車や自転車といった乗り物すらも見当たらなかった。  試しに一軒、呼び鈴を鳴らしてみたけれど、返事はない。背中の悠乃が「ちょっと入ってみてください」と言った。  ドアには鍵がかかっておらず、拍子抜けするほど軽く開いた。けれど、家の中には、何も無かった。  まるで新築の物件みたいに、人がいた痕跡はまるでなく、心なしか内装も粗雑で、誰かが住むことを想定していないみたいだった。  外側だけそれらしい、ハリボテの家。他の建物も全部こうだとしたら——。そう思い当たってようやく、僕はこの世界が作り物だということを実感した。  水道の蛇口を捻っても水の一滴さえ出る様子は無くて、僕たちは諦めて青空とアスファルトの狭間を練り歩いた。  だんだんと悠乃の口数も少なくなってきて、そろそろ無理やりにでも休ませようと思ったとき、古ぼけた店を見つけた。  狙ったように均一な造りの家々の中で、その店だけは。木造の小屋は時代を感じさせるように黒ずんでいて、色あせた大きな看板には〈だがしや〉とゴシック体の文字が掠れていた。 「ごめんください」  という呼びかけに返事はなかったけれど、店内にはカラフルな包みに入った駄菓子が所狭しと並べられていた。 「こういうお店、小学校の近くにもありましたよね」 「ああ。おばあさんが一人でやっていて、僕も何度か小銭を握りしめて行ったことがある」 「私は親に禁止されてて、いつも眺めるだけでした」  そうだったな、と僕は相づちを打つ。悠乃の家はとにかく厳しくて、僕たちは放課後に遊ぶことさえままならなかった。昼休みに話し足りない分は交換ノートを作ってお互いの考えていることを書き記したものだった。  店の奥に進むと、ブウン、と何かのファンが回るような低い音が聞こえた。もしかして、と思って音の出所を探すと、透明なガラスのドアがついた、小さな冷蔵庫が部屋の隅で息を潜めていた。 「悠乃、あったよ。冷たい飲み物」  僕は冷蔵庫を開けて、中のラムネを二本取り出した。青みがかったその瓶はキンキンに冷えていて、火照った身体に気持ちいい。店の前のベンチに悠乃を下ろして一本渡すと、彼女はぼうっとした顔でラムネをしげしげと見つめた。 「これ、どうやって飲むんでしょうか」 「蓋に突起がついた部品があるから、それで瓶の口のところにいるビー玉を押して中に落とすんだ」  僕がやってみせると、彼女も同じようにこわごわと蓋に力を込める。ぽん、とビー玉はうまく落ちてくれたけれど、すぐに蓋を離してしまうものだから、炭酸の泡がせり上がってきて、慌てて悠乃は瓶に口をつけた。  僕も一口、ラムネを飲んでみる。久しぶりに味わう夏の飲み物は、爽やかな甘さで、少し薬臭くて、昔の思い出のままだった。 「ラムネがこんなに美味しいなんて、私、知りませんでした」  興奮した様子でそう言う悠乃の口には、泡がたくさんついている。 「くくく」  と僕が指さして下を向くと、彼女はようやく気がついて、 「わ、笑いましたね」  と僕をポコポコ叩いた。  叩かれながら、またラムネを口に含む。口の中で弾ける夏、空の上で広がる夏、どちらも楽しめるのは、きっと横に悠乃がいてくれるからだ。  ああ、神様、と僕は思う。人生の最期に、また彼女と引き合わせてくれてありがとう。こんな世界を用意してくれて本当にありがとう。ここは確かに理想の夏だ。僕たちのあいだに足りないものは何もなくて、余っているものも何にもなくて、鍵と鍵穴の関係みたいに、僕たちは完全だった。 「ラムネの瓶って、どうして青いんでしょうか」  ふと、悠乃が呟いた。  僕もその理由は知らなかった。空や海と違って、ラムネが青い理由にきっと必然性はない。 「緑に近い色のラムネもあるし、神様がたまたまそっちの方が好きだったんじゃないかな」 「そうですか。でも、私も青で良かったです」 「どうして?」 「青は理想的な色ですから。なかなか周りにない色なので、ずっと憧れていました。綺麗ですね」  彼女は目を細めて、瓶を光に透かして眺めていた。  その表現には少し引っかかるところもあったけれど、確かにきらきらとした光を溜め込むガラス瓶は宝石のような美しさを秘めていた。    それから僕たちは、駄菓子屋の奥の居住部分も覗いてみることにした。ギイギイと軋む床を踏みしめる罪悪感もないではなかったけれど、やはり他の家とは違い、誰かが住んでいるような生活感に対する好奇心が勝った。  古き良き日本の家屋といった感じのその家には、畳のついた縁側があった。柱の梁にはご丁寧に風鈴までくくりつけられていて、心が涼しくなるようだった。  僕と悠乃は縁側に揃って腰掛けた。木のすべすべとした感触が心地よくて、胸の奥に懐かしさのようなものがじんわりと広がっていった。  夏になると、毎年のようにこの郷愁を味わう瞬間がある。でもそれは僕の過去の体験から来るものではない。今だって、縁側のある家で過ごした経験なんてろくにないはずなのに、まるで生まれつき刻まれた記憶みたいに、心が夏の情景と共鳴するのだ。 「なんだか、急に眠くなってきました」  うとうとした様子で、悠乃が言った。 「ずいぶん疲れていたからな。少し休むといいよ」 「でも」 「僕のことなら気にしなくていい。きみの寝顔でも見て暇を潰してるよ」 「普通に気持ち悪いです……」  悠乃はしかめ面をしたけれど、やはり睡魔には勝てないようで、「三十分経ったら起こしてください」と言った。 「ああ。おやすみ」  僕が答えた数秒後には、彼女は自分の腕を枕にして、すうすうと寝息を立て始めていた。  そんな彼女を見守りながら僕は考える。  悠乃がなぜここにいるのかを。  〈サイハテ〉が本当は、どういう場所なのかを。
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