酔芙蓉

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-酔芙蓉(すいふよう)- 深く木々の生い茂る細い山道を少年は歩いている。 辺りの森は深く、濃い緑が夏という季節をはっきりと感じさせる。 周りには凌霄花(のうぜんかずら)の橙色の花が、 いくつも枝垂れるように花開いている。 少年は一人で歩いている。 姓は遠野(とおの)、名は香澄(かすみ)。 白い半袖のワイシャツに黒いズボンを履いている。一つだけ鞄を提げている。 香澄の身体からはぽたぽたと雫が落ちている。 その全身からは水が滴り落ちる。 土砂降りの雨にでも打たれてきたように。 透明な肌は透けるように青白く、 濡れた服の透けて見える肌は魚のようにさえ見える。 しばらく歩くと小さな茶屋がある。 香澄はその茶屋に入った。 木造で出来た茶屋は古く、小さな老女が出てきた。 「――冷やを・・・」 香澄は見るからに未成年であったが、老女は何もいわず、冷酒を持ってくる。 い草の座布団が席に置いてある。 そこに腰掛けてすぐ、日に焼け古ぼけて、ところどころ塗装のはげた机の上に硝子製の入れ物が置かれた。 氷が二つ浮かんでいる。 「兄さん、これからどこへ?」 茶屋の主人であろう老女が聞く。 「この先の、滝を見に行こうと思うんです。たしか、ありましたね、この先に」 「ああ、あるよ、とても景色のいい、名所だ」 香澄は冷酒を一口飲む。 夏の強い日差しが硝子を透過する。 グラスを置くと、香澄は鞄を机に乗せる。 ぴったりと閉められたその鞄をきちんと横にすると、鍵を外して開いた。 中には、水がたっぷりと浸っている。 その中に、一つの大きな、芙蓉が浮かんでいる。 老女はそれを顔色一つ変えずに見ている。 香澄の黒い髪の先からは、 まだ雫がぽたぽたと滴っている。 薄紅の花の浸る水からは、淡く香りが感じられる気さえした。 少年の香りであったかもしれない。 老女は香澄の首筋に、あざがあるのに気が付いた。 両手で絞められたような指の痕だった。 「兄さん、その花はいつ摘みました?」 「昨日です。なるたけ日持ちがするように、調整した水を入れているのです」 「この先には、滝があるけれど、少し危険だから、気をつけなさい」 「ええ、大丈夫です。ただ、見に行くだけですから」 香澄の周りには少しずつ水の輪が広がっていく。 俯いた少年の表情はどこか薄く微笑んでいる。 老女は少年を置いて奥に下がる。その際、告げた。 「兄さん、あんた、あまり水に近づかない方が、いいように思うけどねえ」 「――そうですか。――そうですね。以前、誰かにもそう言われました。水難の相が出ていると」 「気をつけなよ」 「大丈夫です」 香澄は立ち上がる。冷酒はまだ半分ほど残っている。香澄は紙幣を机に置く。 「じゃあ、さよなら」 老女は出て行く少年の姿を少し不安そうに眺めた。 少年はもう振り返らない。 行く手には更に細い道が続いている。 少年は鞄を下げて、歩いていく。 水はまだ、滴り続けている。 老女は少年の座っていた椅子を見た。 水の染みが出来ていた。 紙幣から、幽かに先ほどの淡い香りがした。 白檀の香りだった。 老女はもう一度少年に振り向いた。 彼はもう居なかった。 先ほど見た滝へ向う少年の、 足元には夏が作り出す濃い影すらなかった。
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