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前編
例えば浮島のようなところだ。箱庭とも言えるだろうか。
ぐるっと一面、水平線には島も舟もない。縁を歩けば一時足らずで島を一周してしまう。島には六坪程の小屋が一軒に小さな蔵、それに見合う程度の畑。あとは林と海岸ばかり。
他には必要ないのだ。だから小さな島で充分なのだ。
この島唯一の住人朧は、明けも暮れもしない紫色の空に向かって竿を振った。夕暮れ色の海に浸かるとすぐにウキか沈むので釣り上げれば、いつも同じ魚で、同じ大きさ。種類や味は問題にならない。必要なのは「今日一日の腹を満たす魚」。魚が一度釣れれば、後は何時間針を垂らしていても海藻さえ引っかからない。畑も同じで、必要なものが必要なだけしか育たない。朧はこれを「お上の恵み」と呼んでいる。
今日の恵みを持って小屋に帰ると、玄関に差し掛かったところでなにやら耳に慣れない音がする。
「ぐすっ、ひっく」
それは生き物、それも人間の泣き声らしい。
魚を生簀に放り込んで声を追うと、小屋の裏、焼き物をしようと思いついて挫折した窯の残骸から聞こえる。一見かまくらのように見えるそれを覗き込めば、すすや落ち葉、泥やなにやらで汚れた子どもが中で蹲って泣いている。
「おい、そんなところで泣いていないで出てこい」
朧が声を掛けると、子どもはびくりと肩を震わせ、こわごわ朧を見やる。じっと見つめてまた泣くかと思いきや、ひくっと息を飲んで目を白黒させる。
「おじさん……だれ」
「そりゃあ、こっちの科白だ。どこの餓鬼が入り込んだんだ」
にやりと、自慢の牙を光らせ恐ろしげに笑って見せるも、子どもはそれが見えていないのか気にならないのか、ちらりと目線をやっただけで辺りを伺っている。
「……おい、出て来ないのか。そのままそこにいたら燃やしっちまうぞ」
朧はそのつもりもないので湿って使えなくなった炭を窯に投げ入れる。そうと知らない子どもは、これには焦りを覚えたようでやっと這い出てきた。突然明るくなって瞬いたあと、朧の顔をしげしげと見上げる。牙の次に自慢だったが、あいにく片方折れてしまった角を物珍しそうに眺めている。しばらくして、また同じ科白を吐いた。
「おじさん、だれ」
朧は、好奇心で目を丸くしている子どもにふーっとため息をついた。
「お前、そこは“ナニ”って聞くところじゃあないのか」
子どもは、少し歯を見せて言った。
「おにいさん、だれ?」
子どもは暴れることも、怯える様子もなかったのでとりあえず小屋に放り込み、朧は外で魚を捌いていた。三食分に切り分け、夕食の分はいつものように干して……
「……やっぱり、あの餓鬼の分も必要なのだろうな」
呟いて玄関をちらりと見やると、子どもが顔を覗かせていた。ごくりと唾を飲む音が風に乗ってでも聞こえてきそうだ。
「……腹が減ってるのか」
「うん」
「じゃあ、竿を貸してやるから、手前で釣ってこい」
と、玄関の横に立てかけていた竿を指し示すと、子どもは竿を引っ掴んで一番近い磯に走って行った。子供の分も必要なら、すぐに釣れるはず。
と炊事場に目を戻すと、すぐに子どもの悲鳴が聞こえてうっかり自分の指を落としそうになった。
「おにーさん! 来て来て! 一人じゃ無理だよー!」
駆け付けると、竹の竿が今にも折れんばかりにみしみしと曲がっている。それを必死に引いている子ども。これは大物だ! 朧は子どもを抱え込んで竿を一緒に引いた。二人でひいひい言いながらやっと釣り上げたのは、人間の言うところ「めでたい魚」だった。
「すごい、すごい! 妹が産まれた時に食べたのより大きいや!」
子どもが飛び跳ねて喜ぶものだから、なんだか嬉しくなって、朧も声を出して笑った。
おかげで、朝から豪勢な食卓になった。朧は蔵から自作の日本酒を引っ張り出し、盃を濡らした。子どもは、朝から酒なんて、と顔をしかめたが、ここでは朝も夜もない。腹が減れば飯を食う、うまい魚があれば、うまい酒を飲む。そして眠くなれば床に入る。それだけしかない暮らしだ。
「それで、おにいさんは誰なの? ここで何してんの? それよりここってどこ?」
満腹になった子どもは饒舌に質問してきた。
それでも「誰」だと聞いてくる。
「人に誰だと聞く前に、手前から名乗るのが礼儀ってもんじゃないのか」
朧が再びにやりと牙を見せて聞くも、やはり子どもの意には介さないようで、ふんぞり返って名乗っただけだった。
「僕は葦って言うんだ。強くて人気者になるようにってつけたらしいけれど、あんなもの、僕にとっちゃただの雑草だよ」
ふふっ、と肩をすくめ、泥だらけの着物で格好つける。朝食の前に顔と手足くらいは洗わせたが、気障ったらしい言動もなるほど、綺麗な顔をしている。それを自覚するほどには周囲から愛されているのだろう。
「それで、おにいさんはなんて名前なの?」
「名前よりも気になる事がないのか」
朧は見せつけるのは諦め、折れていない方の角を指し示した。すると子ども──葦は、相変わらず目を丸くするだけだった。
「僕知ってるよ。大人が読む難しい本だって読めるんだからね。おにいさんみたいな人達のことは“鬼”っていうんだろ?」
朧は思わず笑った。声を出して笑った。だってこの子どもは、人間の天敵を「人」だと言うのだから。
「なにがおかしいんだよ!」
「いや、いや、おかしいだろう。鬼は人間をとって食うんだぞ。恐ろしいだろう」
「怖くなんかないさ。だっておにいさんは僕の前で刺身をうまそうに食べているからね」
「なんだ、その理屈は」
曰く、柔らかい子どもの肉を目の前にして、刺身を肴に酒を飲むような鬼に脅威はないと言いたいらしい。まぁ朧に限ってだけ言えば、間違っていない。
「それに、そんなに細っこくて優しげな鬼がいるかい? 人を食らう鬼ってのはもっとおどろおどろしくって、目はぎらぎらしてて、いつも血に飢えているんだよ。こんな島で一人でいるから、おにいさん知らないんでしょう」
まったくその通りだ。島から遠く遠く離れた朧の故郷では、いつも時折迷い込んでくる人間の取り合いだ。勿論、その血を啜り、肉を食らい、骨をしゃぶる為である。それが嫌で、朧はこの島に逃げてきた。と言うより、追放された。
朧が黙っていると、葦は返事を待たず質問を重ねてきた。おにいさんはどうして一人でいるの、鬼ってのは単独行動は好まないのでしょう、この変な島はなんなの、おにいさんの名前は?
「口から産まれたようなやつだ。少し黙れ」
「乱暴な言葉遣いだなぁ、もう少し人間の言葉勉強しなよ」
「……おれに人間の言葉を教えたやつが、高飛車だったからな」
葦はこれに興味津々身を乗り出す。
ところが丁度座卓に手をついたところで、着物にこびりついていた泥がぼろりと食卓に落ちたもんだから、朧は襟首を引っ掴んで外に放り出した。
「やっぱり素っ裸にしてやればよかった。そこの井戸で洗ってこい! 次に泥を落としたら取って食うからな!」
言ってぴしゃりと玄関を閉めたところで、戸越しにからかってきた。
「そんなこと言って、人食ったことなんてないんでしょう」
「あるに決まってるだろう! とっとと行け!」
笑い声と共に足音が離れていくのを聞いてから、朧は蔵に向かった。
泥まみれの着物を綺麗に洗い終えた葦は、がたがたと震えて戻ってきた。顔は真っ青で唇は紫色。ろくに絞れていない着物からはぽたぽた水滴が落ちているので土間は水浸しだ。
「まさか、着たまま洗ったのか」
「そ、そ、そんなわけないでしょう! き、着るものが、他に無いからっ!」
「……そこに用意している」
朧は蔵から引っ張り出してきた子ども用の着物を指す。鬼が縫ったもんで見た目は悪いが、技術には自信がある。年月が経ち、布が駄目になってしまえば、何度でも同じ着物を縫った。
「へ? おにいさんが縫ったの?」
「先程も言った通り、食って、飲んで、寝るだけの生活だ。暇を持て余しているのだよ」
「だからといってどうして子ども用を」
着替えが済んで囲炉裏で暖をとる葦は一向に震えが止まらないようだ。朧は自分の羽織を掛けてやった。
「おにいさんは、見た目だけじゃあなくって、中身も優しいんだね」
「妙な餓鬼よ。異界に一人飛ばされても動じず、挙げ句人食い鬼を優しいと言う」
「泣き喚いていれば誰かが助けてくれると思うほど、子どもじゃあないよ。そりゃあ目がさめたらいきなり煤だらけのあなぐらだったもんで焦ったし恐ろしかったし、外に出てみれば空は紫色なのに海は夕焼け色で、おまけに人語が達者な鬼までいる。こりゃあもう、流れに身を任せるしかないでしょう。おにいさんからは血の臭いがしないから、とりあえず僕が食卓に並ぶことはなさそうだ」
葦は喉をころころ鳴らして笑った。随分と鼻の利くことだ。「人を食った」などという脅しは通じないらしい。
「帰る心配はしないのか」
「どうやって来たかもわからないのに、帰る心配したって仕方ないでしょう。帰れる時は帰れるのだし、駄目なら僕もここに住むだけだよ」
朧は座卓から酒と刺身を囲炉裏に移し、依然寒そうに手を擦る葦には生姜湯を作ってやった。
「面白いやつだ。なに、そう掛からず帰れる。それまで暇だろうから一つ話でもしてやろう」
「はじめはぶっきらぼうな人だと思ったけど、意外と気さくなんだね?」
「なに、ここには時折お前さんのように落ちてくるものがある。それが生きてりゃこうして世話をしてやるんだ。ただの暇潰しよ」
酒の肴の一人語り。言葉と思い出と、己の罪を忘れないよう死人を相手に時折やるが、反応がある方がいい。
「もうずっと、どれだけ以前か忘れるくらい前だ。お前さんと同じような背格好の子どもが落ちてきたのだよ……」
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