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苛立ちの時間
手の中の小さな温もりが存在を確かめるように、ふんわりと優しく力を込めた。頼りない確認に、同じ力加減で握り返す。安心したのか力が抜けるのが指先から伝わってきた。
美優はホッとした。ホッとしたと同時に自分もまた緊張していたのだと気づく。
「みゆさん。仕事行かないの?」
子供向けの教育番組の画面から目を離さずに小町が聞いてきた。
「うん。今日はお休みしてもいいって」
「そうなんだ」
「そうなの」
美優の答えに満足したのか、しないのか、よくわからないが、小町はまだ黙ってテレビを見始めた。この部屋を買って3年。この部屋の中に子供がいたこともなければ、このテレビに子供番組が映し出されたこともない。美優と亮の間に子供がいないので当然といえば当然なのだが、それだけに不思議な感覚だった。画面の中ではポップな格好をした進行役の女性と、これまた元気を絵に描いたような体操のお兄さんと番組のキャラクターが歌ったり踊ったりしている。通常ならそれを見ている子供や親も一緒に歌ったり踊ったりするのだろうが、今、この空間では子供と大人が手を繋いでソファーに並んで座り、黙ってテレビを見つめている。
テレビボードの上にあるデジタル時計はもうすぐ午前11時になると伝えていた。美優がジョーイに電話したのは朝の6時過ぎ。あれから4時間以上過ぎている。身支度して、一緒に行くと言った友人と合流してとなると時間はかかるかもしれない。すみれのパートナーがどこに住んでいるかもわからないが、ジョーイが暮らしている所からはなれているのかもしれない。そこで話し合いがこじれているのではないだろうか。そうでなければ連絡の一本でも入りそうなものだ。いつ連絡が来てもいいようにスマホのサイレントモードは解除してある。焦れったくなって、何度もこちらから連絡しようと思ったが、重要な局面だったりしたらいけないと思うと、メッセージも送れないでいた。
ダメだ。今、私がすべき事は小町ちゃんを不安にさせない事だ。
ジョーイに連絡した後、しばらくして小町が泣きながら起きてきた。
「みゆ、さん……ママが……ママがいない」
不安がいっぱいで、溢れてくる涙を必死でこらえようとしていた。泣き喚かずに、感情をコントロールしようとしている姿に心が痛んだ。
「お仕事で遅くなるって、昨日、小町ちゃんが寝てから電話があったんだ。朝ごはん、何食べたい? ホットケーキ焼く? それとも朝マックする? 私もしばらく行ってないな」
美優は返事に明るく嘘を混ぜた。
「ママが帰ってきてから食べる」
ここ数日、小町と接していてとても賢い子だと感じている。そしてよく大人を見ている。大人を見ていて、今、自分がどう振る舞った方がいいのかを判断しているように感じることがある。それは、多分、小町が育ってきた環境がそうさせているのだと思う。無邪気な笑顔の後ろに抱えている傷を見るような気がした。きっと小町は美優の嘘に勘付いているだろう。それを嘘と言わないのは、嘘と言ってしまった途端に、悪い想像が現実になってしまいそうな……母親が自分に嘘をついているかもしれない事。置いていかれたのではないかという事が。
小町と手を繋ぎながら、美優はこれからどうすべきかを考えていた。
思ったより時間がかかっているが、数時間のうちにジョーイがすみれの居所を突き止めて戻ってくるのは確実だと思われる。すみれが本当に深刻な事件に巻き込まれていない限り。すみれが戻ってきたらどういう対応をしたらいいのだろうか。すみれ親娘との関係は1週間程度。大家と店子。同じ空間を共有しているが、家族ではない。後はすみれ本人と、兄妹同然のジョーイに任せればいい事だろう。人生のどこかを失敗してしまった女同士、何か連帯感のようなものを感じているが、それは口に出したことはないし、それだけで踏み込めるような話でもない。どこか消化し切れない感情があるけれども。
ポーン……とテーブルの上の美優のスマホがメッセーの着信を知らせた。飛びつくようにスマホを取る。メッセージは亮からだった。
「もう!」
「みゆさん?」
小町がいるというのに苛立ちを表に出してしまった。
「あー……その、怒ってないよ? 会社からちょっと仕事の話」
「そっか……」
小町はあからさまにがっかりした様子を見せた。
私がイラついてちゃダメじゃん。
亮のしつこさにはイライラさせられるが、美優の状況を知らない彼がこのタイミングで連絡してくることは悪くない。美優はそう自分に言い聞かせ、メッセージを開いた。面倒な事は先に終わらせるに限る。メッセージは案の定、マンションの支払いについてだった。
美優はふと……亮はどうしてここまでしつこく減額を言ってくるのだろうと思った。美優は出産した事はないが、同じ女として妊娠出産が大変な事である事は承知している。予想外に手術になってしまった事は気の毒だ。だが入院費用などは保険などで賄える部分も多い。一時的に親を頼る事だってできるはずだ。その方が自分の浮気が原因で別れた元妻に頭を下げるより簡単だろう。今のところ亮の態度は「頭を下げる」という感じではないが。
手術は大変だったと思います。
でも私も困ります。
マンションの支払いは、あなたの私に対する最後の誠意だと理解しています。
約束通りお願いします。
これまで何度同じような返事をしただろうか。なるべく穏便に。でも相手のわがままをたしなめつつ。美優はこれだけの文章を何度も書き直した。5回読み直して、送信をタップする。仕事中だというのにメッセージはすぐに既読になった。そのスピードに病的なものを感じた。こんな性格だったろうか。どちらかというと合理的でサバサバしていたはずだが。美優はなんだかざらついた気持ちになる。もう一度離婚コンサルタントに相談に行った方がいいかもしれない。行くとしても、すみれの事が終わってからだが。
ポーン……とスマホが鳴った。ジョーイからだ。メッセージの着信を知らせるポップアップに「驚かないで」という言葉が表示された。緊張が走る。小町に目をやると大人しくテレビを見ていた。さっき仕事の連絡だと言ったので、今のもそうだと思っているのだろう。美優は小町に悟られないよう、飲み物を取りに行く振りをして席を立った。キッチンでコーヒーを淹れながらメッセージを確認する。
驚かないで。
すみれは無事です。
今、警察。
これから聴取が始まるので、詳しいことは戻ってから。
小町のこと頼みます。
警察? どういうこと?
大声が出そうになるのをすんでのところで飲み込む。
わかりました。
ジョーイさんは? 無事?
美優の問いかけに猫がウインクしているスタンプが返ってきた。警察にいるという事は何やら揉め事があったという事だろうが、命に関わることではなさそうだ。
「よし。じゃあお昼ご飯作ろうかな」
そうだ。ミネストローネがいい。
美優はわざと小町に聞こえるように明るい声で言った。小町は食欲がないようだが、準備をしている間にお腹も空いてくるに違いない。すみれ達が戻ってくるのももう少し時間がかかりそうだが、せめて温かい食事で迎えよう。美優は手を洗い、玉ねぎを剥き始めた。
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