ずるい男

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ずるい男

 仕方ないわね。  この男は美優の方からそう言うのを待っている。美優から目をそらし、すっかり空になったコーヒーカップを見ている亮を黙ってじっと観察した。  お昼時間に終業後時間を取ってもらえないかと亮から連絡が入り、会社から5駅先、美優のマンションの1駅手前にある喫茶店で向かい合って座っている。店は亮が指定してきた。会社では人目があって話せない。おまけにどこかに改めて席を設けるとなると妻に説明しなくてはいけなくなる。自分の都合で美優に時間を取ってもらうのだから美優のマンションに近い方がいい。しかし、マンションの最寄りの駅は後ろめたい思いが深くなるから避けたい。そういう気持ちが透けて見える。 「予定では来月だったんだけど、急に具合が悪くなって一昨日緊急手術になって」 「そう。大変だったね」 「まぁ、俺は付き添うだけしかできないんだけど」  そういう話がしたいわけではないのは彼もわかっているだろうが、美優に取りつく島がなく要領を得ない話を繰り返していた。 「一応子供は無事に生まれて」 「そう。よかったね」 「まだ保育器に入ってるんだけど。とりあえず無事で」 「うん」 「帝王切開だったから」 「そう、大変ね」 「うん、まぁ。そうだね。それでどっちも入院が長引きそうで」 「そうなんだ」 「うん、そうなんだよ」 「そう」  また沈黙の時間が流れる。  この男と知り合って6年。初めて見せる態度に驚くと同時に、心はものすごい速さで遠ざかっていった。  彼が言いたいことがわからないほど鈍くはない。察するに予想外の早産で負担が増えるから、月々のマンションの支払いを減額、または一定期間停止、または見逃して欲しいというところだろう。浮気した挙句、子供を作って、その子供と母親の事で美優に都合をつけろと言い出す無神経さにふつふつと怒りが湧き上がってくる。この人たちはどこまで身勝手なんだろう。どこまで人の心を傷つけたら気がすむのだろう。そして美優から譲歩を引き出そうとする狡さに吐き気がする。美優はわざとらしくスマホで時間を確認すると口を開いた。 「この後、人と会う約束してるの。7時からなんだけど。お子さんが生まれたって報告だったらわざわざありがとう。そしておめでとう。申し訳ないけどお祝いは期待しないで」  トートバックから財布を取り出し、自分のコーヒー代を支払おうとした美優を亮が手で制した。 「いや。ここは俺が」 「そう? じゃ、お言葉に甘える」  腰を上げようとした美優を亮が引き止めた。 「もうちょっと」 「え。そろそろ出ないと遅刻しちゃう」  亮が美優の顔を見て言った。 「ちゃんと、話すから」  美優はトートバックを抱えたまま、もう一度席に着いた。 「思いがけず手術になってしまって。入院も長引きそうなんだ。入院費用が100万くらいかかりそうで。あ、まだはっきりは分からないんだけど。その……マンションの支払い、少し待ってくれないか」  美優は頭を下げる亮を冷めた気持ちで見つめていた。 「そう。大変だね」 「じゃ……」  パッと亮が顔を上げた。 「高額療養費制度」  美優の一言に亮が固まった。 「高額療養費制度、ってのがあるよね。これは出産に限らずだけど、医療費が高額になった場合、きちんと申請すれば自己負担額を上回った分を払い戻しできるよね。それに、出産育児一時金だったっけ? そういうのもあるよね」  亮は俯いて美優のいうことを聞いている。 「家庭裁判所は嫌だ。慰謝料はこれから子供が生まれてくるから払えない。だからマンションの支払いをするっていったのはあなたからよね。その上、予想外のことが起きたから支払いは待って欲しいっていうのはあまりにも都合よすぎないかなぁ」  美優に言われるまでもなく、それは彼自身がよく理解している事だ。自ら念書を書いたのだから。 「私、一応離婚コンサルタントに相談したわけ」  亮の顔がさらに強張った。 「念書自体に法的な拘束力はないけど、裁判になった時に有利になるって。私も突然の事で精神的にダメージを受けたし。人生設計も狂ってしまった。慰謝料1回で終わらないから、毎月の支払いの度に、ウチに帰る度にずっと心を切りつけられる。それでも子供が生まれてくるからって頼まれて譲歩したんだよね。それをさ、こういう状況になったからって。あなたたちの都合だけ押し付けてるよね」  亮は美優の言葉を甘んじて受け入れている。全くその通りでぐうの音も出ないだろう。別れたいといわれて以降ずっと打ちのめされてきたことへの鬱屈が止まらなかった。いつかぶつけてやりたいと思っていた感情だが、清々するというより悲しかった。あの女の言うなりのこの男が。この男の本質を見定めることができなかった自分が。そして軽んじられる自分が。  今度こそこの場を立ち去るために美優は立ち上がった。 「復讐か」  美優の背中に亮がポツリと声を投げた。美優は振り向いた。 「いいえ? 自業自得でしょう?」  復讐する価値もない。自分のやらかした結果を認めず、どこまでも美優を悪者にしたいのかと思った。情けなさに涙が滲んできて、足早に喫茶店を出た。  駅から吐き出されてくる人の波に逆らって改札を抜ける。握りしめていたスマホが震えた。  グリーンピースカフェに着きました。  店内に入っています。  白いブラウスに紺のベストを着ています。  待ち合わせの人物からだった。  今、隣の駅です。  10分ほどで着くと思います。  遅れてすみません。  メッセージを返信したところで、電車がホームに滑り込んできた。
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