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すみれ
「すみれ・アンダーソンって本名なんですか」
美優は目の前の美女と履歴書を交互に見た。
「そうなんです。正式にはバイオレット・すみれ・アンダーソンです。父がアメリカ人で、母は沖縄なんです。私は東京で、他の家族は海外です」
すみれ・アンダーソンと名乗った女性は、光の具合によってグリーン……ブラウン、グレーにも見える瞳をメガネの奥で煌めかせた。あまりの美しさに直視できず、美優は目をそらす。美しい人の前では同性であろうと動揺してしまうということを初めて知った。
現在午後7時22分。10分ほど遅れてグリーンピースカフェに到着した美優だが、待ち合わせの相手をすぐに見つけることができた。白いシャツに紺のジレを着た女性は控えめな装いではあったが、ひときわ目立っていた。フレームの大きなメガネ。亜麻色の髪は無造作にまとめているが、だらしないのではなくセレブのオフショットという感じがある。窓際の席で本を読んでいる姿はまるでファッション誌を切り抜いたようだった。
あの人、だよね。
店内に客は7人。カウンター席には男性が2人。女性2人連れがテーブル席に2組。そして窓際の女性。すらっと細い指が優雅にページをめくった。美優は急に恥ずかしくなった。ここ数ヶ月、何もする気が起きず、髪はバレッタで留めただけ。肌もかさついているし、目の下のクマもなかなか消えない。かろうじて切りそろえている指先は面倒で何ヶ月もネイルはしていない。清潔なのは救い。1日動き回ってシャツもくたびれているに違いない。一度ウチに戻って着替えて、メイクを整えて出直したい衝動に駆られる。せめて会社を出る前にメイクを直してくればよかった。そう思うも遅い。もうすでに遅刻している。マンションは駅近10分とはいえこれ以上は待たせることはできない。美優は恥ずかしさを押し込めて、窓際の美女に声をかけたのだった。
「グローバルですね」
「父はアメリカの軍人だったんですけど、リタイアした後、ハワイに移住しました。父は出身はロスですが戻ってもやることがないと言って。兄と私は日本で仕事を始めたのでこっちに残ったんですけど、兄は映画関係の仕事をしているのでずっとハリウッドですね。母方の親戚はみんな沖縄なので、近いといってもなかなか会えないです」
庶民には考えられない単語が次々と出てくる。すみれが用意してきた手書きの履歴書の職業欄には自由業とあった。
「あの、自由業とありますけど、お仕事は」
「……今、ちょっとお休みをもらっているんですけど」
何か事情があるのか。少し言いにくそうにすみれは目を伏せた。長い睫毛が陶器のような白い肌に影を落とす。
「あの、モデルをしていまして」
納得。と美優は思った。すみれはバッグからファッション誌を取り出し、ページをめくった。
「これ、私です」
誰もが知っているブランドの広告ページが示された。ハイファッションに身を包みポーズをとる女性はパーフェクトで同じ人間には思えない。だが、確かに目の前にいる女性だった。
「メイクがすごいんで、今と違うかもしれないですけど」
「い、いえ! そんなことないです。すごく綺麗です!」
すみれは照れ臭そうにありがとうと言った。
ルームシェアのサイトで入居者を募って、これまで5人、面接をした。学生や、派遣という人が多かった。モデルというのは初めてだし、予想外だ。モデルをしているような女性がルームシェアというのは腑に落ちない気がする。外国にルーツを持つすみれにとっては特に珍しいことでもないのか。だが、これほどの仕事に関わる人間がお金に困っているようには思えない。何か事情があるのだろうか。黙ってしまった美優にすみれは何かを察したらしい。深呼吸をすると口を開いた。
「佐竹さん。あの、私、いろいろ覚悟して来たんですけど。私のことを話す前に質問してもいいでしょうか?」
「はい」
「佐竹さんはどうしてルームシェアしようと思ったんですか。あ、空いているお部屋があってそれを活用したいっていうのは普通にあると思うんですけど」
そうだな。自分が部屋を貸す相手が気になるように、相手もまた同居することになる人間のことが気になるだろう。募集要項にはプライベート事情は記入していない。
「そうですね。今住んでるマンションは3LDKで、1人で暮らすには広いんです。結婚相手と購入した3年前には1人で暮らすことになると思ってもいなかったし、もしかしたら子供を授かるかもしれないと思っていたのでちょうどいいかと思っていたんです」
すみれは美優の言葉からいろんなことを受け取ってくれたようだ。驚くでもなく、同情するでもなく、ただ静かに頷いた。
「1人になったので、これからのことを考えるとお金はあった方がいいし」
話しながらこれまで見ないように、気がつかないようにしていた感情に愕然とした。
「でも……寂しかったんです、ね。結局」
束縛されるのは嫌だが、もう、1人で味気ない食事をするのはもっと嫌だった。ただいまにおかえりと返してもらいたかった。それが家族という形でなくても。人に裏切られ傷ついているが、やはり人の温かさに触れたかった。声に出して初めて、自分の感情に納得した。
「あ! だからといって必要以上に干渉するつもりはないんです。私、基本放っておいてほしいタイプなんで」
すみれはにっこり微笑んで頷くと、メガネを外した。メガネをしている時にはわからなかったが、左目の周りが薄っすら赤みがかっている。赤みというより、赤黒い……コンシーラーでうまく隠しているが、隔てるものがないとわかってしまう。美優は息を飲んだ。
「私には8歳の子供がいます。二十歳の時に産みました」
予想外の告白に美優はどう答えていいかわからなかった。
「これからお話しすることは、その、重いと思いますし、私の話を聞いて佐竹さんが断りにくくなることもあると思いますし、逆に断られても仕方がないと承知してます」
すみれはまたメガネをかけた。
「パートナーからDVを受けていて2週間前に娘を連れて家を出ました」
予感していた言葉が淡々と紡がれた。今休みをもらっているという理由はこれか。
「事務所が弁護士を紹介してくれて離婚に向けて手続きを進めています。今、事務所のマネージャーの所に避難しているんですけど、男性なのでいらぬ疑いをかけられると困るので、早く出て行こうと思っています」
夢の世界の住人のような美しい人の後ろにあるものが、思いがけず生々しい現実で美優はすぐには言葉が出なかった。
でも。と美優は思った。
でも、この人は誠実であろうとしている。
初めてあった人間に打ち明けるには勇気が必要だったろう。俯いて美優の答えを待っているすみれの手が震えているのに気づいた。すみれの誠実さに応えたい。そう思った。
美優が右手を差し出した。すみれはパッと顔を上げる。
「あの。ウチ、ここから10分くらいのところなんです。見ていきませんか? 気に入ってくれるといいんだけど」
すみれの顔が今にも泣き出しそうにくしゃっと歪んだ。震える手で美優の右手を握る。堪えきれず、嗚咽が漏れた。
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